毎月発行している園だより「ピヨピヨ」は一斉メールシステムの「マチコミ」で配信されています。そのなかのコンテンツの一部である、園長が書くコラム「今月の熊G」と「お知らせ」をここに掲載します。

今月の熊G 2024.3

最近、熊Gが乳児棟に行くと1才児クラスの子どもたちがワラワラと集まってきて「ピヨバスノリタイ!」「ピヨバスノリタイ!」と合唱しながらピョンピョン跳びはね始めます。お散歩でピヨバスに乗ったのがよほど楽しかったらしく、いちばん月齢が小さい子も「ピヨバス」+「ノリタイ」という二語分を使って表現しています。毎年、1才児クラスの子たちは秋頃になるとつい昨日まで何にも話さなかった子がいきなり「クマジー!」と話しかけてきて私をびっくりさせます。

子どもは教えないのになぜ言葉を話せるようになるのでしょうか。それは脳の中に生まれながらにことばのしくみが備わっているからなのだそうです。有名な言語学者のチョムスキーの「言語生得説」によると、世界中のすべての言語に共通する「普遍文法」があり、それを人間は生得的(生まれつき)に持っていて、育つ国の毎日聞くことばをこの普遍文法にはめ込んで言語を習得していくのです。だから幼児に文法を教えなくても“自然に”話せるようになるのです。

自然に話せるようになる、その子が育った国の言葉を「母語」といいます。日本人なら日本語、フランス人ならフランス語です。この“自然に”というところがポイントで、勉強として教えられて身につける外国語とは違うのです。母語のことを英語ではマザー・タンといいます。タンは牛タンのタンで「舌」のことです。母の舌、つまりお母さんの口から出る言葉のことです。赤ちゃんがお母さんの膝の上で毎日聞いている言葉です。この母語を常に聞いている状態が言語を習得する自然な環境なのです。人間はものを考えるときに母語で考えますが、幼児期に自然に母語をコントロールできるようになると、それを土台として考える力をしっかり自分のものにします。子どもが考えているときは、質問されてもすぐに回答を与えないでください。すると自分で考えたり、工夫したり、判断したりする自律的な思考力が養われます。外国語はそのあとで学び始めればよいのです。

外国語を学び始めるのは何歳ぐらいがよいのかということについて、興味深い調査結果があります。日本からカナダに移住した子どもを追跡調査したら、日常会話はどの年齢でも1年半で現地の子並みに上達しました。ところが読解力は年齢によって差があり、幼児期に移住した子が現地並みになるには平均11年半もかかったのですが、小学校高学年で移住した子は1年半で同学年並みになりました。つまり母語の土台ができていれば外国語の文法もすんなり獲得できるのです。専門家は小学校5年生ごろから英語を学び始めるのがよいと言っています。

 

いまた言葉は何歳になっても学べるのです。学びは「○○のために学びたい」という動機づけがあるとよく身につきます。私事ですが熊Gは小学校の時に英語塾に通わせられましたが大嫌いでサボって友だちと遊んでいたのでまったく無意味でした。しかし大学で建築を学び始めてから米国の大学に留学したくなり英会話夜間学校に2年間、週5日通いました。すると生活に困らな程度の日常会話力は得ることができました。動機づけ、やりたい気持ちが引っ張ってくれたのです。

 

反対に子どもが英語を話せるようになりたいと思っていないのに英会話教室に通わせるのは時間の無駄です。無駄どころか子どもにとっての大切な時間を失うことになってしまいます。挑戦力、自制心、社会性といった「非認知能力」は乳幼児期の自発的な遊びを通して獲得される能力です。遊ぶこと、しかも子どもが主体性をもって遊ぶことが肝心なのです。また、勉強ができる能力である「認知能力」も幼児期のお絵描きや屋外での運動などの「体験」が多いほど向上します。自発的な遊びや体験をする時間を大人にやらされる早期教育で削られてしまうと結果的にその子の能力に悪い影響が出ることになるのです。

「子どもが幸せに暮らせるように最良の教育を受けさせたい」と親が思う気持ちは理解できます。それが早期教育隆盛の背景ですが、それよりも子どものためになることは睡眠や食事の生活習慣を整えることだと小児科医の成田奈緒子さんはいいます。「家庭生活を律動的に行うことができなければ、学業成績がよくても本末転倒。18歳以降に自分を律しながら自立して生活することはできません。生活リズムを整え、生きるために必要な脳の土台を育ててほしいです」 

 

熊倉洋介

今月の熊G 2024.2

先週、年長の子どもたちとみなかみに雪山合宿に行きました。ゲレンデでそり遊びをしているとき「雪の結晶が降ってるよ」と子どもに言われて「えっ?」と思いました。舞い落ちてくる雪を黒いジャケットの袖にうけてよく見ると、たしかに雪印のマークみたいな整った幾何学形をしています。よく見てるね。「キツツキがいる」こんどはゲレンデ脇の林を見ながらそう言う子の目線の先を見ると、枝にとまってトントンしている鳥が3羽もいました。子どもは気づくのに熊Gはぜんぜん気づかない。なんでだろう。年のせいかな。

「子どもは知ってるんですよ。目線が地面に近いからよく見てる。うそを描いたらばれちゃう。だから正確に描いてるんです」先日、交流園で話を聴いた絵本作家のたてのひろしさんはそう言っていました。たてのさんは虫や植物をテーマにした絵本をたくさん書いています。『どんぐり』という絵本の話で、まずくぬぎの林を真下から見上げた絵ではじまり、次にどんぐりがたくさん降ってきて、やがてどんぐりから芽が出ます。その未生(みしょう)の様子が牧野富太郎の植物画ばりの筆遣いで細密に描かれています。熊Gはその絵で初めてどんぐりから芽が出る様子を知りました。一方子どもはどんぐりの芽の実物を見て知っているけれど、そんなことをいちいち大人に話さないだけだというのです。

次のページでは鹿がどんぐりの芽を食べています。その鹿の頭や脚も毛並みの一本一本まで細かく描かれています。「じつはこの鹿は奈良公園の鹿です。鹿の顔を近くでじっくり見られるところはなかなかないので奈良公園に行ったんです」とたてのさん。何でも実物をよく見て描いているわけです。別のページではどんぐりをかじっているねずみがいますが、ねずみは他の本にも登場しています。『しでむし』という絵本は動物の死体を食べるしでむしが主人公ですが、前半はねずみが元気に暮らしていて、それが死んで地面に横たわるとたくさんのしでむしに食べられていきます。しでむしって知らない人が多いと思いますが、たてのさんによるとどこにでもいる虫で、「腐った肉をペットボトルに入れて置いておくと次の日にはいっぱい入っている」そうです。絵本では、しでむしたちがねずみを食べていく様子が細密に描かれているのですが、それも実物を観察して模写しているわけです。

『しでむし』を読んでこれを実写版映画にしたいと思った人がいました。たてのさんを訪ねてきて、ねずみがしでむしに食べられていくところを描いているたてのさんを撮影したいと言いました。でもたてのさんはもう一度同じことをするのは嫌だと言って映画化を断りました。ところがその人はあきらめないで20回もたてのさんのところにお願いにやってきました。しかも毎回、ねずみの死体をお土産に持ってきたそうです。たてのさんはとうとう根負けして映画化を承諾しました。その映画はこの夏に公開される予定です。

『しでむし』の他にも『つちはんみょう』とか『ぎふちょう』などの虫の絵本を出しているたてのさんですが、虫好きなのかと思いきや「別に虫が好きなのではない」と言います。でも絵本にするときには好きになるためにその虫の暮らしを知って物語を作るのだそうです。どうやら虫よりも生き物のいる環境に興味をお持ちのようです。取材と称して森や草原を歩き回って生き物を探す日々を過ごしています。いま、生物を研究している学生たちを集めて学術調査隊を組織していて、環境省の調査許可を待っているところだそうです。

そんなたてのさんですが、もう絵本は辞めたいと言っていました。「いまの日本の絵本業界がぬるいから」だそうです。たてのさんによると戦前、出版社は軍国少年を育てるための戦意高揚を目的とした本を子ども向けに出していた。戦後、その反省から児童書というジャンルをつくったのに、現在はそのことを忘れて売れる本ばかり作っているのが絵本業界だというのです。

子どもたちが虫を追って草原を走り回れる平和な環境を大切にしたいですね。ところで、バッタはゆでてたべると甘くて草の香りがするそうですよ。

 

熊倉洋介

今月の熊G 2024.1

新しい年になりました。子どもたちはどんなお正月を過ごしたでしょうか?熊Gが子どもの頃やっていた、たこ揚げ、羽根つき、カルタ取りはもうしないのですかね。

元旦に能登半島地震がありました。テレビなどで倒壊した建物や土砂くずれなどの怖い映像を繰り返し見続けていると大人でも気持ちが沈んできますよね。子どもたちは不安になるかもしれないので目に触れないようにしてあげて下さい。

熊Gは正月に懐かしい映画を観に行きました。1995年の封切り時に観たので、今回は約30年ぶりの再会になります。夫を亡くした主人公が小さい子を連れて再婚相手の住む地方の町へ移住する話です。どこの町へ行くのか覚えてなかったのですが、今回見直してみて、それが能登半島の輪島市だったことがわかりました。有名な輪島の朝市通りの近くの漁村が舞台で、朝市通りの露店の賑わいや漁民の営みなどが活写されていました。新しい夫は輪島塗りするお椀を丸太から削り出す職人でした。しかしこの地域はこのたびの地震で大変な被害を受けたようです。朝市通り周辺は焼け野原になり、海岸には津波が襲いました。被災された方々に十分な救援の手が届くことを祈っています。そして地震の直後にこの映画を再び観ることになった偶然に驚いています。

ピヨピヨ保育園が加盟している保育団体は毎年秋に研修会を開催しています。今年は富山県で行われます。いつも研修とともに文化行事がセットになっているのですが、今年のそれは輪島周辺を発祥とする御陣乗太鼓の鑑賞が予定されています。ごじんじょだいこ、とは聞き慣れない名前だと思いますが、能登の伝統ある民俗芸能です。熊Gは数年前にたまたまネットで見てびっくりしました。お祭りの太鼓とは全く違う、異形の太鼓なのです。一つの大太鼓を2人で叩くのですが、まずその叩き手のいでたちが怖いのです。海藻のようなざんばら髪で奇怪なお面をつけていてボロボロの着物をダラリと着流しています。一人の叩き手がベースとなるビートをドンドコ刻んでいて、もう一人は恐ろしい身振りとともに予測不能のリズムを繰り出します。すごく怖くてカッコいい。戦国時代に敵方を夜襲する応援として生み出された人を驚かせるための太鼓なのです。いつかナマで見たいと思っていました。

 御陣乗太鼓は保育園でやったら全員大泣きでお漏らし続出間違いなしですが、今週、ピヨの子たちはお正月会で楽しい太鼓を体験しました。ただじゅんさんによる迫力ある大太鼓の演舞や職員たちによるいろんな太鼓の合奏などに続いて、子どもたちにもパーランクーという小太鼓が配られてみんなで叩いて練り歩きました。そのあと大太鼓も叩かせてもらって楽しそうでした。太鼓は叩けば音が出るので赤ちゃんだって楽しいですよね。

 

先日、今年度の秋の研修会の準備会議がありました。文化行事の話になり、委員たちからは御陣乗太鼓の保存会の方々も被災されていて大変なのだから、ほかの企画に変えるべきではないかという意見が出ました。熊Gも残念だけどそれがもっともだと思いました。違う地方の太鼓にしようだとか合唱がいいのではとかみんながアイデアを話し始めた時、一人の東北地方の園長が、私は御陣乗太鼓をやってほしいと言いました。

「被災地の人は目標が欲しいんです。困難な状況にある時、目指すものがあればそこに向かって頑張ろうという気力が湧いてきます。この行事がその人たちの目標になるのであればやってもらいたいと思います」。

その言葉を聞いてハッとしました。そしてそれは3.11から立ち上がってきた東北の人だからこそ持てる視点なんだと思いました。

とにかく新しい年はやってきました。世界中に困っている人たちがいる2024年ですが、子どもたちの前にはまだ見ぬ未来が広がっています。その未来を明るくするために園と家庭が力を合わせて今年もひとつ、ドーンといってみよう!

 

熊倉洋介

今月の熊G 2023.12

5年前の出来事です。その年、年長交流お泊まり保育があり、夕食が大のり巻きでした。スダレを使って1m超の巨大なのり巻きを作ったのです。ピヨと交流園の年長たちが3グループに分かれて、大人がスダレの上に並べてくれた酢めしと具を横一列に並んでくるっと巻くのです。のり巻き作るのなんて初めてだし、巨大だし、みんなの息を合わせなくちゃいけないので子どもたちも一生懸命です。何とか巻けて、デキター!となりました。3グループが順番に作業し終わったらあとはそれを大人が切ってくれてみんなで食べました。

でも熊Gはそののり巻き作りには不満でした。だって子どもたちがやらせてもらったのは巻くところだけだから。その前、その後の工程は時間の都合で全部大人が裏でやったので、子どもたちは手伝えません。案の定、子どもたちは自分のグループの巻く順番が終わったらどっかへ遊びに行ってしまいました。他のグループの作業を見守る辛抱も興味もわかないのは仕方がないと思いました。

¢¢¢

先日、その同じ交流園で「斎藤喜博先生のこと」という講演を聴きました。斎藤喜博先生とは戦後、教師が一方的に教科書を教えることが学校教育だとされていた時代に、子どもたち自身の気づきを引き出す授業を全国に広める先駆者として活動した先生です。斎藤喜博という名前は知らなくても、「一つのこと」という歌を知っている人はいるかもしれません。ピヨの卒園式で贈る歌として職員が歌ったことがあります。「♪いま終わる一つのこと〜いま超える一つの山・・・・・・」という歌です。その作詞者が斎藤先生です。先生は子どもたちに合唱の楽しさを知ってもらいたくて、校長を務めた島小学校で熱心に合唱指導をしたそうです。今回講演した露木和男さんは新人教師時代に斎藤先生の薫陶を受けた方で、講演では斎藤先生との出会いや、斎藤先生が教育界にあたえた新しい考え方についてお話し下さいました。

露木さんの講演にあたって、当日その保育園の職員たちは斎藤喜博作詞の歌を3曲合唱することにしていました。あらかじめ熊Gにもその3曲のリストが送られて来ました。「みんなで行こう」、「利根川の歌」、そして「一つのこと」の3曲です。熊Gはノブコに特訓してもらってとりあえず歌えるようにはなりました。露木さんの前でその園の職員といっしょに何とか3曲の合唱をやりおおせたと思ったら、露木さんは別の歌もやりましょうと言って、みんなが知らない斎藤喜博作詞の楽譜を配って一節ずつ教え始めました。熊Gはばれないように適当に口パクするのがせいいっぱいでしたが、おそらく露木さんは斎藤先生から学んだ合唱指導法を私たちに伝えてくれようとしたのでしょう。

たくさんの学びのあった講演会でしたが、「一つのこと」という言葉が心に残りました。歌詞を覚える段階で、一つのことって何のことだろう?という疑問が浮かんだのです。この言葉は斎藤喜博のよく使う言葉で、ある著書のタイトルにもしています。歌の中には「♪いま終わる一つのこと〜」が2回出てきます。山に登るという言葉も2回出てくるので、一つのことって、ふもとから登って、山頂に到達し、そしてふもとに降りる。その全行程を完遂することを「一つのことを終わる」と表現しているのかなと熊Gは解釈しました。

¢¢¢

その講演会から1週間後、ピヨで拡大保育会議がありました。ある発表者が、斎藤公子全集を引用して、子どもにいろんな体験をさせる際、美味しいところばかりつまみ食いのようにやらせるのではなくて、大変なことも含めて全てのプロセスに関わらせることが大事だよね、と言いました。すると別の一人が、ピヨの芋ほりは掘りっぱなしで一回食べたら残りは放ったらかし、ちゃんと最後まで使い切るべきだ、と発言。さらに、今年は芋の苗植えを農家の都合で子どもにやらせてあげなかったからホントに掘っただけ、やる意味あったか?という話になっていきました。

熊Gはそのやりとりを聞きながら5年前の大のり巻きを思い出していたのでした。別のやり方はなかったのかと。一つのことを子どもに体験させてあげられるように。

 

熊倉洋介

今月の熊G 2023.11

今月初め、熊Gは3.11の津波で多くの子どもたちが亡くなった東北の大川小学校に行きました。そのことについて第1部と第2部に分けて書きます。

 

第1部「当日の様子」

「あっ!地震だっ!」「キャー!」「机の下にもぐれーっ!」2011年3月11日、5年生の教室で下校の準備をしていたT君たちを襲った地震は3分間も揺れ続けた。北上川の川辺に建つ宮城県石巻市立大川小学校の児童たちは揺れが収まったらすぐに校庭に出た。急いだので裸足の子もいた。子どもたちが整列した時、逃げ遅れがいないか確認してから校庭に出てきたE先生が叫んだ。「津波が来る!裏山だ、裏山へ上がれー!」大川小の校庭は裏山につながっている。鎌倉の御成小の校庭の片方が山になっているのとよく似ている。子どもでも簡単に上れるゆるい斜面だ。E先生の声で数人の子どもが裏山へ走り出した。数年前に他校から転任してきたE先生は防災意識の高い人だった。「こらーっ!勝手に動くなー!列に戻りなさい!」ところが別の先生によって山に上がり始めた子どもたちは連れ戻されてしまったのである。そこでE先生は教頭先生に「裏山へ逃げましょう!」と直訴する。この午後、校長は自宅近くに出かけていて不在だったので教頭が最高責任者だった。教頭は携帯で一度は校長と話したが、しかしすぐに電話は通じなくなっていた。

災害時には防災マニュアルに従って行動することになっていたが、実は大川小の防災マニュアルは山梨県のものをほぼ丸写ししたコピペ書類だった。教育委員会へ提出するための間に合わせだったのだ。それには「避難場所は近隣の空き地・公園」と書かれていた。しかし大川小の付近には空き地も公園もない。しかも校庭に立つ石碑には海抜1.1mと書かれている。

まだ前日の雪が残っている校庭でしゃがんだまま、子どもたちは寒さに震えていた。その時、校庭の防災無線のスピーカーからサイレンが鳴り響き、続いて大津波警報が放送された。初めて聞く大津波警報におびえる子どもたちを落ち着かせながら先生たちは教頭の指示を待った。「先生!山へ逃げようよー」T君たちが担任にそう言うと「勝手なことを言うな!黙ってろ!」と一喝された。普段山で遊んだり、授業を受けていたりするので、T君はなぜ山に逃げないのか不思議だった。教頭はそこにいた地元の区長に裏山に上がりたいがどう思いますか?と相談した。すると区長は「津波は来ないから学校にいた方が安全」と答えた。

地震が来てから数十分が経過したが、まだ教頭は移動の指示を出さない。先生たちは何も言わない。E先生は二階建ての校舎に戻れるか、山の斜面の状態はどうかなど走り回っていた。校門の前では学校の送迎バスが待機していた。

そうするうち何人かの親が子どもを迎えに来た。あるお母さんが担任の先生の腕をつかんで「今カーラジオで6mの津波が来るって言ってました!すぐみんなを山に逃してください!」と訴えた。するとその先生は諭すように「お母さん、落ち着いてください。あなたの子が泣いて周りの子が動揺するので早く連れて帰ってください」と言った。

その時、役所の広報車が猛スピードで川沿いの道を走って来て、津波が松林を超えてきましたと放送しながら正門前を通過していった。親たちがあわてて子どもを車に乗せて逃げていった。そこでみんなはようやく移動を始める。しかし向かったのは裏山ではなく川沿いの通称「三角地帯」と呼ばれている広い交差点だった。地震が来てから50分がたっていた。そして移動し始めて1分後に10mの津波が到達した。ほとんどの子どもがまだ校庭から出ていなかった。真っ黒い津波が渦を巻いて校庭に流れ込んできて子どもたちを飲み込んだ。

T君は津波に流されたが偶然近くに流れて来た冷蔵庫にしがみついて助かった。そのあと胸まで土砂に埋まっていた同級生を見つけ手で掘って助け出した。別の児童ひとりは津波を見て山に向かって走り、斜面にたどり着いて助かった。その子が斜面を上がっていくと先にE先生がいて「こっち、こっち」と手招きしていた。

助かったのはこの4人のみ。児童73名、教師10名が死亡した。(第2部へ続く)

 

第2部「つまらない人間関係」

「なぜ50分も校庭にとどまり続けたのか?」だれもが抱く疑問です。いいかえれば「なぜわが子は死ななければいけなかったのか?」という親の痛切な叫びです。目の前に簡単に上れる山があるのに上らず、50分後にやっと向かったのは三角地帯。なぜこんな不合理が行われたのでしょう?この謎を明らかにするためにご遺族らは裁判を起こしました。1審の判決は現場にいた教師たちの過失が認められ遺族らの勝訴でしたが、現場教師に過失があったことは言うまでもないこと。そうではなく遺族が知りたい、なぜ彼らがそんな不可解な行動を取ったかという原因は明らかにされなかったので、ご遺族らはさらに控訴しました。

2審の判決は現場の教師のみならず平時の段階からの防災対策を怠っていた市、教育委員会、校長、教頭など関係する公務員組織全体の過失であると断じました。根拠の不明なハザードマップやコピペのマニュアルや避難訓練の未実施など平時にやるべきことをやっていなかった学校組織に原因があるとされたのです。学校側の上告は棄却されて裁判は確定しました。しかし根本的ななぜ動かなかったのか?という疑問の答えはまたも判決文になかったのです。なぜ教頭はマニュアルや区長の意見を無視して山に上がるという決断ができなかったのか?なぜ他の教師たちは黙って教頭の指示を待っているだけだったのか?なぜE先生の言葉に他の教師たちは誰も反応しなかったのか?裁判が終わった後も疑問は残ったままです。

今回の訪問で熊Gは現場を見ると同時に、ご遺族、T君のお父さん、裁判を支えた弁護士、裁判の映画を作った監督からお話を聞き、その映画も見ました。そしてご遺族の言葉から疑問の答えが見えた気がしました。熊Gがご遺族の一人に、誰に対して最も怒っていますか?と聞いた時、その方は一瞬間をおいてから「校長です」と答えたのです。熊Gは、教頭です、と言うかと思っていました。なぜ校長なのか。マニュアルを整備せず、避難訓練を怠っていた責任を問うているのかとその時は思いました。それもあるけど、もっと別の理由があるはず。ここから先は熊Gの主観の入った分析です。

大川小の校長はトップダウン型で厳しく部下を評価する人物だと言われていました。そのため、職員たちが意見を出し合って物事を決めるような民主的な雰囲気が学校になかったようです。反対に、教頭以下教師たちは自分で臨機応変に判断するとか、自分の考えを主張することよりも、指示に従って責任をのがれ、ヘマをして減点されないように立ち回ることが行動原理となっていたのではないでしょうか。また、いつも自分の考えで行動して異端児扱いされていたE先生とは距離を置くことで彼と同一視されないようにしていたのではないでしょうか。

人間には正義よりも自らの保身を優先させてしまうサガがあります。しかしそれがはびこると信頼の欠如した人間関係しか生まれません。実際、ご遺族のあるお母さんが言ったそうです。「うちの子はそんなつまらない人間関係のために死んだんですか」と。

校長に最も怒りを覚えると言った方はまた、全国のPTA組織が大川小事件を勉強してほしいとも言っていました。子どもたちの犠牲を教訓とするために、この国の大人同士の「つまらない人間関係」を「信頼関係」に変えていってほしいという願いが込められた言葉だと受け取りました。

 

熊倉洋介

今月の熊G 2023.10

「それってボクの仕事?」夫に家事を手伝ってと言ったらこういう答えが返ってきたと話してくれたママがいます。別のママからは「自分の時間が全くないことがいちばんつらい。夫は独りの時間を作るためにあえて歩いて帰ってくるのに」という思いを聞きました。それらの言葉からは仕事を持ちながら家事と育児も担っているママたちの絶望的な負担感が痛いほど伝わってきます。

 

熊Gの家では掃除は週末にします。ハタキでパタパタして掃除機をかけます。風呂掃除は2日ごとです。窓ふきと換気扇掃除は年末にします。それらはだいたい熊Gがやります。毎日の夕食の準備は妻がします。朝や休日は熊Gと息子も作ります。作ってもらった人が皿洗いします。洗濯と布団干しは妻と息子がやり、熊Gは乾いたのを畳みます。買い物は生協の宅配で発注と受入は妻がします。ごみ出しは熊Gか息子です。以上が我が家の主な「見える家事」です。役割を決めたわけではないのですが、自然とこうなりました。これに子育てが加わると家でやることが一挙に増えますが今は子育てや介護はありません。

一方、「見えない家事」と呼ばれるものがあります。国が行う全国家庭動向調査における「食材や日用品の在庫の把握」「献立を考える」「ごみを分類し、まとめる」といった項目がそれです。ようするに見える家事に付随する細かい家事です。昨年の調査では夫婦の家事の80.6%を妻が担っているという結果が出たそうです。夫は家事の2割しかやっていない。しかも見えない家事はほとんどやっていないらしいです。

ところで、日本は生まれる子どもの数がどんどん減っています。直接の原因となる傾向は2つあって、結婚してもあまり子どもをつくらない傾向と、そもそも結婚しない傾向です。結婚しないのはなぜなのかよく知りませんが、結婚してもあまり子どもをつくらない傾向の分析にはいくつかの研究があります。ある研究によると、男性の育児休暇の取得が進まないことが夫婦が子どもをつくらない理由だということです。核家族化が進んで、妻は家事を8割負担した上に子育ての負担が覆いかぶさっているのに、夫は育休を取って子育てしようとはしない。平等じゃない。だったらもう子どもをつくらない。というわけです。男性は育休取得が制限されているのかというとそんなことはなく、逆に我が国の育休制度は世界的に見ても充実したものになっています。男性も女性と同じように育休をとれる建前になっています。

その研究によると我が国で男性の育休取得が進まない理由は、日本社会に根強くある「男性稼ぎ手モデル」にあるとのこと。つまり家のことは妻に任せ、男は外で金を稼いでくるという古い役割分担意識です。この意識が職場にあり、上司も同僚も育休とるなんて男のすることじゃないと考えている。その空気に押されて夫は妻に申し訳ないと思いながらも育休を申請する勇気が出ないのです。ところがこれがスウェーデンだと職場の意識は「共働き・共育てモデル」になっていて、夫と妻が同じ長さで順番に育休を取得するのはあたりまえのことになっています。

実は熊Gも息子が生まれたときに育休を取りませんでした。友人と立ち上げた小さな事務所だったので社会保険に入っておらずそもそも育休制度を使えなかったのですが、もし使えたとしても取らなかったでしょう。そのころはいくつものプロジェクトが進行していて毎日終電で帰宅していました。家のことよりも仕事を優先する意識があったと思います。ただ息子は育休明けの1才からピヨに通い始めたので、朝の送りだけは熊Gがやらせてもらいました。しかしこのままでいいのかという思いが高じてきて、息子が3才になったとき働き方を変えることにし、事務所を辞めて独立して仕事を減らし、家族と過ごす時間を増やしました。

結局息子は一人っ子として育ちましたが、我が家の「共働き・共育てモデル」は彼の意識の中に根付いたようで、料理や洗濯などの家事を進んでやる大人になりました。

でも妻に言わせると、あんたたち、見えない家事がぜんぜんできてなーい、ということのようです。             

 

熊倉洋介

今月の熊G 2023.9

先週土曜日に、プール片付けを行いました。お父さんたちが10人ほどかけつけてくださり、和気あいあいと手際よく協力して予定時間内に終了しました。ありがとうございました。プールの方は父母会長、副会長らにまかせ、熊Gは乳児棟テラスの排水溝のどぶさらいをしました。いっしょにどぶさらいをしてくれたのがみず組の二人のパパで、ひとりはアメリカ人、もう一人はフランス人です。フランス人のパパはまだ日本語が上手ではないので、3人の会話はもっぱら英語でした。熊G30数年前に1年間アメリカにいたとき、英語で生活していましたが、そのあと海外旅行もしていないのですっかり英会話から遠ざかっていました。でも2人とシャベルを使いながらメチャクチャな英語で四方山話(よもやまばなし)をしていると外国語で会話する楽しさを思い出しました。

この楽しさはどこから来るのだろうと考えてみると、違う国の人と意思疎通ができたという達成感なのかなと思います。こっちの言いたいことが伝わり、あっちの言っていることが部分的にでもわかる。それだけでうれしい。そしてこの感覚って、言葉を話し始めた子どもが日々感じていることなんだなと気付きました。

1才半くらいになると急に言葉を話し始めます。みず組の部屋にいくと昨日まで黙っていた子から突然「ウマジー!」と呼ばれたりしてびっくりします。それにあわてて返事するとうれしそうにくり返します。ちいさい子どもたちは意思疎通できたうれしさで、どんどん会話するようになっていくのでしょう。

年長くらいになると、大人とおなじような口の利き方をします。先日、雲が出てきたのを見て雨が降るかなと言ったら、年長の男の子が「そうだね、その可能性はあるね」と答えました。「可能性」なんて難しい言葉をもう使いこなしていておどろきました。

そうかと思えば、大人と同じ語彙をつかっているのに、正しい意味でないことがあります。外国のある研究の例で、瓶という言葉は口がくびれているガラスでできている容器のことですが、5才の子どもは缶やコップも瓶と呼んでいるという調査結果があるそうです。つまり液体を入れる器を全部「瓶」と呼んでいるわけです。これは保育園でもよくあることです。熊Gが子どもにおはなしをするとき、次の話を考えていてなかなか始めないと、よく4才くらいの子どもから「ハヤクヨンデ!」と言われます。子どもにとっては絵本の読み聞かせも、語りべによるおはなしも「ヨム」なのです。このように大人と同じ言葉を使っているからといって、必ず同じ考えを述べているとは限りません。「ママなんか死んじゃえ!」と言ったって、「シヌ」は「静かに寝る」という意味で言っているかもしれません。

絵本の読み聞かせの話が出ましたが、最近、その評価が高まっていることをご存じですか。20世紀までは、絵本の読み聞かせは0才から3才未満の子どもにはあまり必要がないと考えられてきました。3才くらいにならないと絵本は理解できないという見解が主流でした。しかし幼い時期の絵本の読み聞かせが子どもの言語発達に重要な役目を果たしていることがわかってきました。米国の調査で、12才での読み聞かせの頻度が89才時の文章読解力に関係していることがわかったそうです。近年では乳児期からの絵本の読み聞かせが推奨されています。日本でもブックスタート運動といって乳児検診の時などに絵本の読み聞かせを薦める活動が展開されています。ではなぜ絵本が言語発達に貢献するのでしょうか。子どもが大人と同じことにいっしょに注意を向けることを共同注意といい、コミュニケーションや語彙習得の基盤であると考えられています。絵本の読み聞かせではこの共同注意が頻繁に起きるので言語発達を促すというわけです。

先日、園見学に来られた2ヶ月くらいの赤ちゃんのご両親が、読み聞かせがいいといわれたからサン=テグジュペリの「星の王子様」を読み聞かせしていますとおっしゃいました。早期のブックスタートがいいとはいえ、さすがに赤ちゃんにあれは早すぎるだろうと思いましたが、親子の愛着関係のためには悪くないでしょうと申し上げました。でももしかしたら将来、その子は大作家になったりするかも知れませんね

 

熊倉洋介

今月の熊G 2023.8

園庭のプラタナスはたくさんの葉っぱで子どもたちの上に涼しげな木陰をつくってくれます。でも冬になるとその葉は枯葉となり、となりのコンビニの駐車場まで飛んでいくので、ときどきほうきとちりとりを持って回収に行かなくちゃいけません。熊Gの家の裏山にも枯葉がたくさん落ちます。その枯葉はそのうち腐って腐葉土になり、さらに年月が経つと土になります。落葉樹は毎年新しい葉を茂らせては枯葉を落とすので、1年経ったら1年分、山の土は増えていることになります。ということはうちの裏山はだんだん大きくなっているのでしょうか?ピヨの築山は毎年土を追加しているけどいつのまにか小さくなってしまいます。それはドロンコするために水を流すので、土は泥水になって排水溝からどこかへ流れていくからです。流れきらない泥は排水溝にたまるので時々さらわないと詰まってしまいます。同じように、裏山の土は雨が降ると少しずつ雨水と一緒に流れ落ち、川を伝って海まで流れて行っているはずです。「森は海の恋人」運動で知られる気仙沼の牡蠣漁師は、牡蠣が育つ海の栄養分が山の土から来ていることを知り、山に木を植えているそうです。

先日、台風が接近してきたので熊Gは休日を利用して家のまわりのどぶをきれいにしました。大雨が降ると山からの泥水がすごい勢いでどぶを流れていくのですが、どぶが詰まると泥水が庭にあふれてしまうので、たまっている泥や落ち葉をさらっておくわけです。

Gはどぶを掃除するためにまずその脇の草刈りからはじめました。草ぼうぼうで作業の邪魔だし、そのままだと夜の大雨の時に様子がよく見えません。鎌を使ってガシガシ刈り込んでいきました。暑くて汗ダラダラになってやっていると鎌の刃がカチンと何かに当たりました。草を分けてみるとそれはペグ(杭)の頭でした。どぶの脇にペグが深く埋められていたのです。それは少し離れた場所にもうひとつありました。

なぜこんなところにペグが?テントを張るわけでもあるまいし。こんなことをするのは父しかいません。父はいつも台風シーズンの前にどぶの掃除をやっていましたが、3年前に亡くなったので今となってはペグの意味を聞くことはできません。父は熊Gと違って日曜大工とか工作とかが苦手で、何かを修理したりしてもうまくいったことがない人でした。庭の手入れもよくしていましたが、なんだかトンチンカンな仕事になってしまうことがほとんどで、またパパが変なことしちゃったわ、といつも母

に言われていました。このペグもそのうちのひとつだと思います。使い途はないのだけれどでもなんとなく抜きがたくて、そのまま埋めておきました。

夏がくるたびに父がやっていたことがもうひとつあります。終戦記念日になると靖国神社に出かけていきました。父の一番上の兄が戦死しているからです。「兄弟を代表して墓参りしているんだ」と言っていました。戦死した兵隊さんは家族のお墓には入れず、全員靖国神社に祀(まつ)られているのです。8人もいる兄弟の末っ子の父がなぜ兄弟の代表なのか熊Gは深く考えたことがなかったのですが、熊Gの弟が疑問に思ったらしく、何年か前に父にその理由を聞いていました。インタビューする仕事をしている弟はその会話を録音していて、念の入ったことにそれをレコード盤にして保存していたのです。父が死んだあとにそのレコードを聴きました。

お兄さんが出征したとき父はまだ小学生でした。お兄さんは乗っていた船が沈められて戦死したそうです。戦後何年も経ったある日、父は兄の位牌がある仏壇の引出しから一通のはがきを見つけました。それはお兄さんが家族にあてて戦地から送ったはがきでした。戦況や日々の生活をつづった文面でしたが、そのいちばん最後に「エイジロウハゲンキデスカ」と書いてあったそうです。他の兄弟のだれにもふれていないのに自分のことを気遣う言葉があったと語るレコードの声は涙ぐんでいました。そのことがあって父は毎年靖国神社に参拝していたのでした。

今月の熊G 2023.7

先週の週末、ピヨの職員は埼玉県深谷市に二日間の研修に行ってきました。ご協力いただいた保護者のみなさま、ありがとうございます。おかげで多くの職員が学びの機会を持つことができました。

今回はピヨが実践しているさくら・さくらんぼ保育の原点を知る二日間でした。60年前のさくら保育園を映した映画を観、当時の職員から話を聴き、さくら保育園、さくらんぼ保育園の園舎と園庭を見学しました。そしてその結果、熊Gはある確信を得ました。

映画や創立期の職員の話から、子どもの生活と職員のがんばりようは当時のものが今のピヨにつながっていると確認できました。一方で園の環境は足元にも及ばないと改めて思い知りました。

じつは熊Gは以前、ピヨの園舎の設計に着手するときに、今回見学した本家の保育園を見に来ています。そしてその開放的な空間性をピヨの設計に引き写しました。でもそれはねずみと象くらいの敷地の広さの違いから、縮小コピーのようなものになってしまいました。本家では子どもにとっては見渡す限りが園庭です。あちこちに立つ巨木の間に屋根よりも高い築山がそびえています。まわりは畑で塀などありません。建物はおおきな部屋がたくさんあって、広い廊下だけで保育園ができそうです。ひろびろ、のびのび、そして自由な空間です。ピヨはこれと同じ環境を子どもたちに与えることはできません。深谷市と鎌倉市では土地の値段が10倍くらい違うのでそれはしかたがないことです。

だから、鎌倉では鎌倉でできる保育をしようと発想を転換するべきです。鎌倉には埼玉にない海があります。深谷市にない山や谷があります。豊かな自然があり、長い歴史や文化性があります。狭い敷地を飛び出して、町中を園庭にすればいいのです。埼玉の地に生まれたさくら・さくらんぼ保育を乗り越えて、鎌倉に鎌倉型の保育の原点を作ること、それがピヨの目指すべき保育。このことは園長になって以来なんとなく感じていたことですが、今回本家を再訪してみて確信したのでした。

環境の話題で思わず力が入ってしまいましたが、子どもに対する大人の接し方はこれまでさくら・さくらんぼ保育から学んだことを実践していくことに変わりはありません。

二日目は広木先生の講演を聴いたのですが、そのなかで斉藤公子がこの保育を始めた当初に考えていたのは幸薄い子、親の愛情を知らない子に愛情を注ぐことだったと話していました。そして愛情を注ぐとはどういうことかについて、あるエピソードを紹介してくれました。

それは広木先生がかつてテレビで見たマザー・テレサの話でした。ある番組で国際的な有名人たちに「世界で一番美しいところはどこですか」と聞いていたのだそうです。みんながアルプスの山の頂上からの景色だとか、カリブ海のダイビングで見た光景ですとか答えていた中で、マザー・テレサにマイクが向けられると、彼女は「子どもの笑顔があるところ」と答えたのだそうです。インドの極貧地域で子どもたちのための施設を作ってきた彼女にとっては、汚れた街を駆け回って笑う子どものいる風景が世界で一番美しいのです。その答えに面食らったインタビュアーは、愛の人と呼ばれるマザー・テレサに「愛の反対は何ですか」と質問しました。テレビを見ていた広木先生は愛の反対は憎しみか、ねたみか、そういう答えだと思っていたら、彼女の答えはこうでした。「愛の反対は無関心です」。

ひとから関心を持たれないことほど辛いものはないし、もし子どもが親から関心を持たれなかったらその子はどうなってしまうでしょう。斉藤公子は戦後、そういう子たちを預かって保育園をはじめたのだそうです。

ひとり一人の子どもに関心を持つ。とりわけその心の状態に関心を持つ。それが愛を注ぐということだ、と広木先生は話してくれました。

この話を聞けただけでも、今回の研修に多くの職員が参加できてよかったと思いました。

■ 今月の熊G 2023.6

  先月の全体会にはたくさんの保護者と職員と理事会役員が参加してくれました。全員に①マイブーム、②好きな食べ物、③子どもの頃に好きだった本、のなかからひとつ選んで話してもらいました。一部を紹介したいと思います。

 

「マイブームは土です。土って人間が作れないもので、草刈りなんかしてると植物が際限なく生まれてくるこの土とはいったいなんなのだろうと考えてしまいます」土について哲学的に考えているつち組のお父さんです。「草刈りがマイブームです。ゆくゆくは菌ちゃん先生のような畑をつくりたいです」とはみず組の職員。今回は草刈りや畑作りといった土に関連した話題が多かったですね。庭やプランターで家庭菜園している方が何人もいましたし「庭で毎年スイカ作っています」というやま組のママも。「友だちと畑をやっていて、そこに菌ちゃん先生に来てもらいました」とはやま組のママ。ちなみに菌ちゃん先生こと有機農業の吉田俊道さんの話題は今回なんどか出てきました。「土いじりをしたくて家庭菜園スペースをつくったのですが、子どもの砂場になってしまった」という残念なやま・みず組のパパもいました。

建築が好きな人たちも多く、好きな建築家の建物を見るために家族をつれて6時間運転して行くというみず組のママがいました。古民家をDIYで再生中のかぜ組のパパもいます。「革製品をケアするのがマイブームです」(みず組ママ)とか「最近ぬか漬けを始めました」(やま組ママ)というひとも。アロマがマイブームという方も多く、「フランス式です」(やま組のママ)とか「ボリビアで体験しました」(職員)など国際的ですね。

「鎌倉殿の13人を見始めました」というみず組のママはピヨに入るために鎌倉に引っ越してきて、鎌倉を知るために大河ドラマを昼休みに見ているそうです。同じように最近鎌倉に住み始めて名所を巡っているかぜ組パパ、「ChatGPTがマイブーム」のかぜ組のパパや「ニュースを英語で読むのがマイブーム」のおひさま組のパパも最近転入組のご家族です。「キャンプがマイブーム」はうみ組のママや職員も。「夫婦そろってカメラが大好き」というおひさま組のママは園内撮影禁止と言われてショックだったとのこと。また、つち組のパパは地球暦にはまり会社をつくっちゃったそうです。

「好きだった本は『そらまめ君のベッド』です。先日、うちの子が園庭の凹みに落ち葉を敷き詰めて寝転がって「ソラマメクンノベッド」と言っていたって聞いて感慨深いものがありました」というのはかぜ組のママ。またつち組のお父さんは「なん者ひなた丸シリーズが好きでした。子どもに読んであげたら子どももはまりました」親子で同じ本が好きになるなんていいですね。

他にも「ぐりとぐら」(やま・みず組パパ)、「14匹のネズミシリーズ」(うみ・おひさま組ママ)、「冒険者たち」(やま・つち組ママ)、「くるまのいろはそらのいろ」(おひさま組パパ)、「おしいれの冒険」(うみ組ママ)、「とんことり」(おひさま組ママ)、「からすのパン屋さん」(うみ組ママ)などが挙げられました。「子どものころ日本昔話全集を父が読んでくれました。私の子どもにも読んでくれますが私より父が読む方が集中していて、父には読み聞かせの才能があるみたいです」というやま・つち組ママ。おじいちゃんに読み聞かせに来てもらいたいですね。

「子どものころ好きだった本はマンガです」という人もたくさんいました。「スラムダンク」は何人も挙げていて根強い人気ですね。「通勤時の読書がマイブームです。最近は量子力学とポジティブ心理学にはまっています」というのはかぜ組のママ。いま電車で本を読む人が少なくなっていますね。

「おいしい店を探してランチするのがマイブーム」といううみ組のパパ。「好きな食べ物はビールと焼酎」といううみ組のパパ。やはりお酒が好きで「お誘いお待ちしてます」といううみ組のママ。「好きな食べ物をパパにつくってもらうのがマイブーム」とはやま・みず組のママ。そして「チーズとピザが好きで、高じてお店をやってます」というのはおひさま組のパパでした。みなさんのおかげでとても楽しい会になりました。  

今月の熊G 2023.5

大型連休が明け、何日かぶりに会った子どもたちは散歩やドロンコなど友だち同士で遊びを楽しんでいます。新入園児もすっかりピヨの環境になじんでいます。

さて先月につづいて、今月の熊Gも共感の話です。

それは去年の年長たちが演じたミュージカルの一場面でおきたことです。森は生きているという演劇をみんなで観に行った年長の子どもたちは、自分たちでそれを演じてみたくなって、お泊まり保育で短いミュージカルとして両親たちにみてもらうことにしました。

練習する時間がほとんどなかったので本番はドタバタの喜劇みたいになってしまい、登場のタイミングがバラバラだったり、セリフをとちったりして、見ている親たちだけでなく本人たちも思わず笑っていました。けして上手ではないけれど、全場面を通じて子どもたちはのびのびと楽しそうに演じていました。そして最後の場面で、I ちゃんの演じる主人公のみなしご

が「指輪の歌」を独唱しはじめました。「コロガレ、コロガレ、ユビワヨ・・・・・・」

I はずっとピヨで育った子ですが、クラスの中であまり目立つ子ではありませんでした。体が小さく声も小さいし、運動もあまり得意ではなくて、散歩に行くといつも最後をのんびり歩いていました。熊Gは I が年長になるまでほとんど会話らしい会話をした覚えがありませんでした。

ミュージカルをやることになり、I がみなしご役だと聞いた熊Gは、主役の成り手がいなくて押し付けられたのかと思いました。でもそうではなかったことが本番を見てわかりました。I は演じることに決意を持って、みなしご役に打ち込んでいたのです。台本をしっかり覚え、衣装や小道具も自分であつらえ、セリフが出てこない相手役に小声で教えてあげてもいました。熊Gは、あののんびり屋の I がねえ、と感心してみていました。

そして最後の場面、他の全員が幕の後ろに隠れてから、I がひとり舞台の中央に歩みでてきました。そして歌います。「コロガレ、コロガレ、ユビワヨ、コロガレ、コロガレ、ユビワ・・・・・」。真っ直ぐに前を見つめて、ゆっくりと、小さいけれどしっかりした声で、一語一語絞り出すように。

そのときです。固唾を飲んで見守っていた親たちみんなが、示し合わせたように、Iの発する一語一語に合わせて、ウン、ウン、とうなずき始めました。幕のすきまから覗いていた熊Gには、声にならないガンバレという親たちの声援が聞こえるようでした。そして、よその子のお父さんが涙を拭っているのが目に入りました。熊Gもなんだか感動して目頭が熱くなりました。

あのときの親たちは、一生懸命なIを応援する気持ちでひとつになっていたと思います。すなわち共感していたと思うのです。自分の子だけではなく、クラスの子どもたちの成長をみんなで願い、よろこび合うことに。

これが熊Gが最近肌身で共感を感じたできごとなのですが、こうした共感が根底にあれば、ピヨピヨ保育園の子育ての輪はしっかりしたものになると思います。そこでまたゴリラ博士の山極寿一氏の受け売りなのですが、人が直接つながりあえるコミュニティの規模は最大で150人くらいなのだそうです。それくらいの人数までならお互いの人となりを把握して直接話し合いによってものごとを進めていけるけれど、それを超えると代表制とかなにかの間接的システムが必要になり、心のかよい合いが失われていくのだそうです。ピヨの保護者と職員と理事会の全員を合わせるとほぼ150人なので、みんなでつながれるというわけです。

今週末、3年ぶりに対面での全体会を開きます。コロナ禍の間はできなかった対面での催しを復活させる最初のイベントです。保護者、職員、理事会の全員が参加します。共感できる前提はお互いの理解だと先月のこの欄で書きました。だから今回の全体会はめんどくさい話は最小限にして、参加者みんながお互いを知るきっかけにしたいと思います。ご参加お願いします。

 

 

今月の熊G 2023.4

  ある本にこんな絵が描いてありました。人間の子どもと鬼の子どもがなかよく並んで一冊の絵本を読んでいます。でもよく見ると、人間の子どもは笑っていて、鬼の子どもは泣いています。そして絵の下に「さて、二人は何の絵本を読んでいるのでしょう」と書いてあります。何でしょう?

新年度になりました。桜の花はすっかり散って、新緑の季節になってきました。新しいクラスになった子どもたちと一年間、楽しく過ごしていきましょう。

今年度のピヨピヨ保育園のキーワードは「共感力をはぐくむ」です。一昨年度の「対話」、昨年度の「生活」、そして今年度が「共感」。毎年、熊Gがそのときの園の状況を見て、いま大切にすべきキーワードを決めています。コロナで人と人の距離が遠くなって、共感することも減ってしまったと思います。

山極寿一さんによると、集団生活を基本とする人間の進化の過程で、お互いを結びつける力となったのが共感する能力です。ヒトが二足歩行できるようになり、食べ物を持ち帰って分配するようになると、他者の思いへの想像力が培われ、共感力がうまれました。共感力は身体的に一体感を得る行為、たとえば歌や踊りや食事などを共にすることによっても育まれます。伝統的な行事で人が集まると食べたり歌ったりしますし、スポーツや作業などでいっしょに身体を動かすと仲良くなりますよね。今年度はみんなで楽しむ機会をたくさん作って共感力を高めていきたいと思います。

とはいえ、だれに対してでも素直に共感をおぼえることができるわけではありません。他人のはなしを聞いて「そうよねえ」と言ったら共感したことになるのでしょうか。共感って何なのか、単純そうでじつは結構深いものだと思います。

冒頭の二人が読んでいた絵本は「ももたろう」です。この話は、人間にとっては動物たちと手を組んで悪い鬼をやっつける勇ましい物語ですが、鬼の子にとっては仲間が殺される悲しい話です。人間と鬼は同じ話を読んでも感じるものが違うのです。

また、こういう話もあります。第一次世界大戦のとき戦場でにらみ合っていたイギリス軍とドイツ軍が、クリスマスの日にいったん戦争をやめて、一緒に食べたり歌ったりしてクリスマスを祝ったという本当にあった話です。

この二つのエピソードから言えることは、共感する人たちは同じ立場に立っているということです。人間と鬼は立場が異なるので共感できないし、逆にイギリス人とドイツ人は同じキリスト教徒という立場で共感しています。立場は価値観とも言えるでしょう。これらのエピソードから、共感するには相手の価値観を理解していることが前提だとわかります。

昨年度、年長さんたちが集まってお泊まり保育の相談をしているとき、ある子が2泊したいと言いました。それに同調して僕も、私もという声があがりました。それで次のお泊まりは2泊することになったのですが、そのあと、こっそり担任に2泊したくないと打ち明けた子がいました。でもその子は話し合いのときには黙っていたのです。子どもたちはまだ自分の気持ちを表現できるようになる発達の過程にいるわけですが、大人でもそういうときがありますよね。日本とはそういう同調圧力がはたらく社会です。いわゆる「空気を読む」というやつです。

空気を読めるということも、共感力のおかげと言えるかも知れません。自分の考えと違うけど、みんながそうしたいようだから黙っておこう。和をもって良しとする日本的価値観のなせるわざです。ところが外国人やあるいは自閉スペクトラム症の人たちは場の空気を読みません。率直に自分の本音を言います。民主主義の基本だと思います。

本来の意味での共感は空気を読んで同調することではなく、相手の気持ちをおもんぱかって親切にしたり、いっしょに喜び合って盛り上がったりすることです。それには相手の価値観を理解する必要があるのです。

人間の子どもが鬼の子どもに共感するためには、なぜ泣いているのか聞いてみて、彼が絵本から感じた気持ちを理解することから始めなければなりません。わたしたちも生活のなかに対話を増やして共感しあえる子育て集団になっていきましょう。

今月の熊G 2023.3

12年前の311日の午後、材木座の事務所にいた熊Gは大きな地震に驚いて表に飛び出し、隣の駐車場に逃げました。揺れに合わせて自動車が生き物みたいにそろってダンスしていました。事務所の本棚が倒れ、壁土の一部が落ちました。地震が収まってから自宅にちょっと寄り、すぐに工事中の今のピヨピヨ保育園の現場にかけつけました。大工さんたちと建物に被害がないことを確認したあと、由比ヶ浜海岸の近くにあった当時の園舎に向かいました。行ってみると子どもたちはおらず、園の入口に「御成小学校に避難しています」と張り紙がしてあって、職員がひとりだけ残っていました。御成小学校に行くと、教室のひとつにピヨの園児と職員がかたまっていて、不安そうな顔で迎えに来る保護者を待っていました。水やラジオなどを渡して熊Gは家に帰りましたが、親が帰宅困難になりその教室で夜を過ごした子もいました。

あのとき、東北では津波と原発事故でたくさんの人たちが避難を余儀なくされました。熊G3月の終わりごろに被災地を訪れましたが、まだ仮設住宅はなく、避難した人たちは体育館や公民館で過ごしていました。

宮城県石巻市のある保育園に行くと近所の住民の避難所になっていて、調理室で女性たちが炊き出しのごはんを作っているところでした。ガスが止まっているのでガスボンベを持ち込み、水は裏山の湧き水からホースを継いで引いていました。トイレは地面に穴を掘っていました。電気は通じていたので、子どもたちはみんなでビデオを観て時間をつぶしていると言っていました。

福島県郡山市にあるビッグパレットという展示会場には福島第一原発に近い町や村から千人を超える人たちが避難していました。ロビーや廊下の硬い床に毛布を敷いて寝ていました。足の踏み場もないほどひしめいていて、段ボール箱を広げた囲いで仕切っている家族もいましたが、それも腰高くらいなもので、プライバシーはありません。食事は救援物資から配られていましたが、熊Gが行った日のメニューは菓子パンとジュースでした。炊き出しで暖かいカレーなどが出たりするようでしたが、もうカレー飽きた、と言っていました。救援物資を仕分けて配る手も足りないようでした。女性用下着を配りますとの案内に長い列ができていました。大きな避難所だったので駐車場には自衛隊が設けたテント式のシャワー施設がありました。子どもたちはホールの一角で遊んだり、勉強を教わったりしています。でも放射線量が高いので外で遊ぶことはできません。入口では入る人をいちいち線量計で測っていました。

Gがなぜ被災地に行ったのかというと、避難している人を鎌倉に呼びたいと思ったからです。阪神淡路大震災のボランティアに行ったとき、体育館に避難している人たちの辛そうな様子を見ていたので、まず鎌倉で空き室を提供してくれる有志を募り、そして福島の避難者に来てもらって少しでもリラックスしてもらうつもりでした。そのプロジェクトを実施する鎌倉のまちづくり団体の先遣隊としてビッグパレットに行ったのです。

何組かの避難家族と話をしました。鎌倉で少しゆっくりしませんか、受け入れてくれる家庭があります、と申しでると、お気持ちはありがたいがここから離れるのは不安です、とだれもが口をそろえて答えました。子どもの新学期がどうなるか、行政の支援がどうなるか、自分たちだけで県外に出たら情報が入らなくなってしまうから、という理由でした。鎌倉に行きたいという人は一人も見つかりませんでした。その夜、郡山の知り合いにこぼしたら、福島県民は地元意識が強いから県外に出ていくことには抵抗があるんだよ、と言われました。私たちは相手の心情に思い至らずに勝手な思い込みで空回りしていたようです。結局そのプロジェクトは絵に描いた餅におわりました。あのとき一緒に行った友人がビッグパレットの子どもたちに紙芝居を見せたことだけがボランティアとしての成果でした。

 

来週の310日にピヨでは避難訓練をする予定です。大地震が起こり津波にそなえて全員で峯山に逃げるという想定です。震災を忘れず、教訓を活かしていかなければ。

 

 

今月の熊G 2023.2

「もう終わり?まだ始まったばかりじゃない」。12月にピヨピヨ保育園で開かれた「広木克行先生を囲む会」は最後に先生自身がそう言ったくらい、熱を帯びた意義深いものになった(らしいです。熊Gは家族が発熱したので参加できませんでした)。いつもの講演はなく、はじめて座談会形式で行われた今回の会は、約30人の保護者が車座になって床に座り、先生に自分の悩みを打ち明けて助言をもらう、始めから終わりまで育児相談の時間でした。

今回、車座での座談会形式を提案したのは、ある映画についての講演録を熊Gが読んだことがきっかけでした。坂上香監督の「プリズン・サークル」という映画のことは、その講演録を読むまえから知ってはいましたが、あまり関心を持っていませんでした。ある刑務所のドキュメンタリー映画で、更生のための教育プログラムをテーマにしているということで、特に面白そうだと思わなかったのです。

Gが改めてその映画に興味をもったわけは、歴史家の藤原辰史さんが保育者向けに語ったその映画についての講演録で、サークル(円)に意味があると言っていたからです。映画には刑務所内のホールで20人くらいの受刑者が、円形に並んだ椅子にこしかけて人の話を聴くシーン、あるいは数人毎のグループに分かれて円陣を組んで話し合う場面があるということで、藤原さんは円形になって話をすると、聴く人は話している人の顔だけでなく、話を聴いている別の人の顔も見ることになり、その目線の交錯が場を和ませ、喋りにくいことも喋れるようになってくる、と言っていました。そして「この目線のあり方は、保育園でも同じではないでしょうか。子どもたちが先生の顔を見ているだけでなくて、先生の顔を見ている子どものことも見ている。そういう関係がどれほど重要か」と言っていました。そういえばピヨでも子どもたちはよく丸くなって話し合っています。それで車座がいいと思ったのです。

先月、横浜でこの映画の自主上映会があったので足を運んでみました。そして実際観てみて、これはすごい映画だと感銘を受けました。

島根県にできたその新しい刑務所では従来なかった試みが行われています。「セラピーのコミュニティ(回復の共同体)」という活動がそれで、略して「TC」と呼ばれています。映画では4人の受刑者にスポットをあて、TCによって彼らの心のありようが変わっていく過程が描かれます。

TCではまずみんなの辿ってきた人生を話してもらいます。ここに来たほとんどの受刑者は子どもの頃にいじめられたり虐待されたりしています。ある少年は小学生のとき、仕事をしていない父親から毎日暴力を振るわれている。ある日ごはんを炊くために流しでお米を研いでいるとき、少しお釜からこぼしてしまった。見つからないように拾い集めてお釜にもどしたけど後ろに父親が立っていて、頭を思い切り殴られて顔が流しの縁にぶつかって前歯が折れてしまった。別の子は養護施設で先輩たちにいじめられていたが、親しい同級生にそのことを話したら告げ口されてさらにボコボコにされた。あるいは両親から虐待されている子の家に児童相談所から問合せが来たあと、その子は父親から手の甲にタバコで根性焼きを入れられた。などなど。

しかしそんな過去のつらい記憶には蓋がしてあって、簡単には口に出せません。それをセラピーの専門家たちの導きによってちょっとずつ話していくのです。そうしてみんなが過去を語ったあと、罪を犯した自分に向き合うTCに取り組みます。

親戚の家に強盗に入りおじさんを包丁で刺す事件を起こした少年は、数人で円になって裁判風演劇をするTCに参加します。被害者役、犯人の元恋人役などがいて、犯人役を少年本人が演じます。被害者役からなぜ相談せず強盗しようとしたのか、子どもを堕ろして二度と会わないと誓約した元恋人役から堕ろした子どもに何か言うことはないか、などのきびしい問いが突きつけられます。つい涙ぐんでしまった少年に向かってさらに「何の涙ですか?」と追い打ちがかけられます。犯人役の本人も、被害者役の受刑者も、簡単には自分の罪に向き合えないけれど、演劇という形を借りることで事件を一歩引いた位置から見つめることができるのです。こうして様々なTCをくり返し、やがて罪から逃げない人生を歩み出していく姿をこの映画は描いています。

家庭内での子どもへの虐待や保育園での不適切な保育でニュースになったものは氷山の一角です。またそうとは知らずに虐待をしてしまっているケースもあるでしょう。そうした大人の行いが子どもを犯罪者にしてしまう悲しさ、そしてそこから再び人を回復させてくれるTCの力、それを教えてくれた映画「プリズン・サークル」でした。ぜひみなさんにも観てほしいとおもいます。

つらい思いを抱えながら、素直にそれを人に言えず、気持ちに蓋をして平気を装っている子ども、そして大人がいます。というかだれでもそうです。ピヨピヨ保育園は、TCのように、また広木先生のように、そんな思いを吐き出せる場になれるでしょうか。

 

今月の熊G 2023.1

このあいだ、図書館の児童本のコーナーで絵本を探していたときのことです。3才くらいの女の子が本棚の前で「きょうもない!きょうもない!」と大声でなげいています。お気に入りの絵本が貸し出し中で棚にないんだなと思っていると、後から来たお父さんが「大きな声出さないで」と小声で言いました。女の子はそれからカーペット敷きの読み聞かせコーナーに上がり、そして「○○ちゃん、じゅんびかんりょう!」と何度もお父さんに呼び掛けました。するとお父さんはまた小さな声で「静かにして」とたしなめました。

こういう光景は図書館でよく目にします。大人は図書館は静かにするところと思っていますから、そうは思っていない子どもに対して抑圧的な行動に出るのが普通です。この抑圧的な行為はそれをうける子どもにとってストレスであると同時にそうする保護者にとってもストレスです。そしておそらく、それを見ている図書館の職員にとってもストレスです。大人は本当は子どもにのびのび絵本を楽しんでもらいたいのに、あっちで閲覧中の他の利用者から文句を言われるのではないかとヒヤヒヤしてしまう。そんなふうに、絵本は読みたいけど図書館はちょっと、と足が遠のいている親子も少なくないのではないでしょうか。

Gは鎌倉市立図書館の子どもの読書をすすめる会のメンバーです。いまこの会では新しい図書館の姿について議論をしています。令和10年に市役所が深沢の新庁舎に移転しますが、そのなかに深沢図書館が入ります。それから、今の市役所の跡地に中央図書館が新築されます。この2つの新しい図書館のなかにも児童本が置かれますが、そこを子どもと保護者にとって楽しい場所にするにはどうしたらよいか検討しています。

保育園の子どもは本を読んでもらうときに周りが騒がしくても気にしませんし、小学生もやはり読んでいる本に集中できます。周りが見えなくなるほど遊びや作業に熱中している状態をフローというそうですが、読書でもそうです。熊Gも小学校のころ、本を読んでいると呼んでも全然気付かない子と言われていました。だから本来、子どものための図書館では静かにしなさいと言わなくてもいいはずなのです。それより、本棚を巡って思い思いの会話をして楽しめればいいと思います。一方、大人は子どものような集中力はないのでざわついた環境では気が散ります。人の声につい耳を傾けてしまう。だからもともと大人のために作られた図書館は静かにするところというのが常識なのです。

いま新しい図書館を設計するに当たってこの、図書館=静か、という常識を破って、親子連れが気兼ねせず楽しく過ごせる空間と年配者がちゃんと本を読める空間を両立させる方法を探っています。キーワードは「にぎやかな図書館」です。

もし、児童本のスペースがおしゃべりOKだとしたら、いろんなところで読み聞かせができます。さらに、読み聞かせのボランティアさんがたくさんいて、親に代わって子どもに本を読んでくれれば、その間に大人は自分の読みたい本を探したり、ちょっと息抜きしたりすることができます。ボランティアさんは冒険遊び場にいるプレイリーダーのように市民から集めればいいと思います。また、親同士、子ども同士が読書テーブルを囲んでおしゃべりしたりボトルのお茶を飲んだりできるカフェや公園のような居場所としての図書館になれば素敵ですね。保育園のお散歩の途中にみんなで立ち寄って絵本を見たり休憩したりすることもできます。学校に行きたくない子どもが日中過ごす居場所にもなります。

高齢者にとっても図書館は大切な居場所です。日本経済新聞の調査で高齢者に「退職後に自宅以外で定期的に行く場所があるか」とアンケートしたところ、男女ともに1位は図書館だったそうです。また最近では、夏に熱中症を避けるためや冬の暖房エネルギーをセーブするために図書館に行って過ごすという話も聞きます。

  子どもも大人も楽しめるこの「にぎやかな図書館」が実現できるかどうか、これから考えていくわけなのですが、こうしたらいいんじゃない?というアイデアがあったら教えて下さいね。

今月の熊G 2022.12

あなたの母親のことを話してくれませんかと言われてその男は、自分には二人母親がいる、産みの母と育ての母だ、と言って話し始めた。太平洋戦争で戦死した画学生たちが出兵前に描き残した絵画を展示する「無言館」という美術館が長野の上田にあり、男はその美術館の館主である。しかしその男の風貌は、白髪混じりのボサボサの長髪に着古したジャンパー姿で、とても世間的に知られた美術館の開設者には見えない。

男の話は戦前の東京にさかのぼる。男の母はそのころ家に出入りしていた文学青年と恋仲になり、みごもって男を産んだ。しかし父親になった青年は生活力がない上に、外で何人かの女性と関係をもっている。さらに肺病を患っており、息子の生活を心配した母は家の向かいに住む大学生に相談した。大学生が、大学の門前で靴磨きをしている子どものいない夫婦が養子を欲しがっていると教えると、母はその夫婦に息子を渡してしまう。自身も家を出てその後別の男性と再婚する。

靴修理で暮らす夫婦は貧しかったが大事にその子を育てた。戦後、青年になった男は一家が食べていくために様々な仕事をしたあと、新宿のはずれに小さな飲み屋を開いた。

その飲み屋が繁盛し、いくつも支店を出すほどになる。東京オリンピックのときには店の前の道がマラソンのコースに決まり、男は店頭で握り飯を売ろうと思いつく。握る人手が必要なので募集のハリガミを出したところ、一人だけ応募してきた女性がいて、そののち妻になった。

商才に長けていたようでお金が入るようになった男は、前から好きだった絵画を少しずつ買い集めた。それなりのコレクションになったころ、戦没学生たちの遺品である絵画の存在を知る。その絵たちの何かに心を動かされた男はそれまで集めたコレクションをすべて手放し、遺品の絵を収集し始めた。そして戦後半世紀ほどたった時、上田に無言館を建てた。無言館の開館はマスコミに大きく取り上げられ男は有名人となった。

その20年ほど前、男は30才くらいの時父母が本当の両親でないことに気づき実親探しを始めた。そして血のつながった父親がなんと戦後の文壇を代表する作家の水上勉であることを知る。自分が愛読する作家が本当の父と知って驚いたが、男はあえて水上勉に近づくことはしなかった。

無言館が開館してほどなく、一人の老女が訪れてきて、自分は館主の母である、館主に会いたいと告げた。

2才の時に別れて以来、半世紀ぶりに会った産みの母は、男の体を撫でさすりながら謝り続けたという。しかし男はどうしてもその母に親しみを感じることができず、冷たい対応をしてしまった。母はその後何度も手紙や落花生を送ってきたので、一度だけ宿を取ってふたりで過ごしたが、男が母に暖かい言葉をかけることはついになかった。そして母は80才を過ぎてから自殺してしまった・・・・・・。

これは先月、松本で開かれたさくら・さくらんぼ保育の研修会で本人から聴いた話です。

なぜあの宿で母にひとこと優しい言葉をかけることができなかったのか、その男、窪島誠一郎さんは後悔していると言っていました。

窪島さんが生まれたのは1941年、開戦の年です。たよりない肺病やみの夫との戦時下の生活のなかで、子どもの将来を案じた母がその子を養子に出したのには母なりの思いがあったのでしょう。しかし若い夫が出兵した母子家庭は当時たくさんあったわけで、窪島さんが自分を捨てた母を許せない気持ちもわかります。30才のときに親をさがし、そして実父を見つけますが、実母のことは探さなかったのでしょうか。探したはずです。でも見つからなかった。そのときの実母に対する気持ちはどうだったのでしょうか。会いたかったのか、会って何と言いたかったのか。そしてそれから20年たってやっと会えたときなぜ冷たい態度を取ってしまったのか。

2才で断ち切られた愛着関係が原因なのかも。波瀾万丈の人生を生きた男の中にある母への思いは、本人にもとらえきれない複雑なもののようです。

今月の熊G 2022.11

ピヨの運動会がひさしぶりに全員参加で開かれました。各クラスの子どもたちはそれぞれの種目で今の自分の力を発揮して見せてくれましたね。

しかし運動会の前日、Kちゃんは運動会に出たくないと言い出しました。運動神経のいいKちゃんは本当だったらだれよりも運動会で活躍するはずの子です。でもしばらく前から膝に故障が出て以前のように走れなくなっていたのです。Kちゃんの気持ちを想像すれば出たくないのもわかります。一方で大人たちはクラス全員で運動会に参加して、みんなの絆を深めて欲しいと思っていました。だからその夜、園からKちゃんに電話して、来たくなったら来てね、と伝えました。熊G は園からの帰り道、来てくれるだろうか、もし明日Kちゃんが来たなら、そのときは一本締めで祝おうと勝手に決めました。それがあの一本締めの真相だったのです。

さて、運動会の前の週に予行練習がありました。そのときの年長の子どもたちの様子です。

あとちょっとなんだけど逆上がりができずに、友だちに補助してもらった子がいました。練習のあと熊Gのそばに来て、本番で助けてもらうのはいやだからがんばって練習する、とつぶやきました。

大人がロープで支える竹竿を登りきれない子が何人かいました。でも2階の手摺に固定されて立っている練習用の竹竿だったらなぜだかみんなすいすい登れます。

高い丸太を渡るとき、一歩目を踏み出せない子がいて、聞けば自分の中に「ヤダ虫ガデテクル」と言いました。だけど片手の指一本を脇にいる大人に触れているだけで踏み出せます。

戸板の上からみんなのようにジャンプしたいのにこわくてどうしても踏みきれない子は、戸板の上で「ヤリタイノ!」と言いながら30分間体勢をとっていたけど跳べませんでした。

それぞれの子のこころの中にハードルがあって、それがあとちょっとのところでその子を立ち止まらせているのですけれど、本人はそれを越えたいと願っています。友だちのように自分もやりたいと思っています。練習ではできたり、人がいないところでできたりしても、不思議なものでみんなの前ではできなかったりする。それはその時点でのその子の姿であって、ハードルの前で行きつ戻りつすることがその子の育ちのなのだと思います。

運動会当日、戸板の子は自分の番になったとき、戸板を押さえていた熊Gと小池に、もっと低い板に代えて欲しい、そして戸板の向こうに布団を積んで欲しいと要求しました。それは跳ぶつもりだったからでしょう。あきらめていないのです。

そして交換してもらった戸板によじ登り、跳ぶ体勢に入りました。1秒、2秒、3秒……。次の瞬間、腕と脚の筋肉にグッと力がみなぎり、前傾姿勢が強まったように見えました。跳ぶか!? いや、跳べない。また1秒、2秒……。何度か力は入るのですが思いきることができない。見かねた友だちがおしりを押そうとすると「オサナイデ!」と言います。熊Gは、戸板の上で自分のこころのハードルを必死に越えようとしているこの子は、いまこの刹那(せつな)育っているんだ、と感じました。

結局、跳ぶことはできませんでした。悔し涙を流して板をまたいで下りました。逆上がりの子も、竹登りの子も、丸太の子も、その日は友だちに助けてもらうことで種目を終えました。でもみんな、最初は自分でハードルを越えようとし、挑戦してみて、今日の自分はまだ越えられないと判断して自ら助けてもらうことを決めました。助けを請えることは信頼関係の証ですし、自分で決めることは自立への道筋です。だからピヨの保育者は自分のハードルに向かっている子に対して、手助けをしません。その子がどうしたいのか、誰に助けを求めるのか、自分で決めるのを待ち、その子の要求に応じます。

  「運動会で子どもの育ちを喜び合いましょう」というのが保育園の運動会に際してよく言われることですが、育ち、それは何かができた、ということだけではなくて、できなかった、ということの中にこそあるのかも知れません。

■今月の熊G 2022.10

今週、幼児棟は恒例の鮭のちゃんちゃん焼きを食べました。北海道から送ってもらった2本の鮭を子どもたちのまえで3枚におろし、筋子やら白子などをお腹から引っ張り出して見せたあと、うみ組とやま組がホットプレートでキャベツやニンジンといっしょに焼きました。できあがったちゃんちゃん焼きをかぜ組さん、つち組さん、もちろん大人にも分けてくれました。石狩汁も食べました。おやつにはやはり北海道から来たトウモロコシを、たき火で皮ごと丸焼きにして焦げ目がついたやつを食べました。みんな、おいしい!と言っていました。また来年もやりたいですけど、サンマ同様、鮭も漁獲量が減ってきています。海温の上昇などが原因らしいですが、伝統的な食文化を子どもたちに伝えていくのも難しくなっています。

その前の週、熊Gはおそい夏休みを取って、話題になっている展覧会を見に皇居の近くの美術館に出かけました。その帰りに神田の古書店街をぶらぶらし、古びた文庫本を買いました。「檀流クッキング」という50年くらい前の料理の本です。檀一雄という小説家(女優の檀ふみのお父さんです)が著者で、小説家なのですが料理好きで新聞に連載していた料理にまつわるコラムを本にしたものです。昔から一度読んでみたいと思っていました。

自分は料理の素人だが、料理にかけた時間は莫大でもう50年に近い、なぜなら9才の時に母親が家出してしまって、父親はまったく料理をしない人だし小さい妹が三人もいたので自分がやるしかなかった、と書いています。9才のときから毎日買い物に行って、しかも戦前ですからガス器具も炊飯器もなく、七輪やかまどでご飯を作っていたそうです。そして大人になって世界中を放浪し、様々な土地で料理を食べたり作ったりして生きてきて、自分の旅先の味が自分の味だと言っています。

檀一雄の料理は豪快な男の料理です。「ぶった切る」とか「放り込む」とか「ゴタまぜにする」などという言葉が飛び交っています。最初に紹介されているはカツオのたたき。「皮のまま、カツオに、金串を二本縦に刺し通して、ワラを焼き、カツオの表面をサッとあぶって霜降りにさせ、薄く塩を塗りつける。」薬味と酢醤油をまぶしつけて「パタパタ叩いたあげく、3センチぐらいの厚さにぶった切る」とあります。数年前、高知県黒潮町の港の近くで本場のワラ焼きのたたきつくりを見せてもらいましたが、確かにそんな感じでした。

じつはピヨでも昨年度、年長の冬のお泊まり保育でカツオのたたきを子どもたちと作って食べました。年長がコメ作りした田んぼで脱穀した稲のワラがたくさんあったのでそれでワラ焼きしようということになったのです。お泊りの日の夜、解凍した冷凍カツオのサクにめいめいで串を刺して準備します。園庭に囲いを作ってワラに火をつけると一気に燃え上がります。子どもたちは一人ずつワラを放り込んですかさずカツオを差し出してあぶります。怖がってキャーキャー言いながらも全員なんとかカツオを霜降りにすることができました。あとは調理さんがたたきにしてくれてみんなで食べました。

みなさんのお宅では子どもたちは料理のお手伝いをしていますか。たしかに小さい子に手伝ってもらったらかえって手間が増えますね。もちろんピヨでも普段の料理は調理さんが作っていますが、年長になると行事食などでは子どもたちに料理を手伝ってもらいます。檀一雄は特別だとしても、小学生になれば火や包丁を使ってごはんの支度を手伝える子もいるでしょう。「家のご飯は一汁一菜でよい」と提案している家庭料理研究家の土井善治さんは、「ちょっとでいいから食べる人が作る人を手伝うことがすごく大事で、みんなのためと思って料理していても、食べる人がやってもらって当然と思ったら作る人はつらくなってしまう」と言っています。将来、楽しい家庭をつくるために、また自分で自分のことができる人になるためにも、ちょっとでいいから子どもたちがごはんの支度を手伝うといいと思います。

 

いや、子どもだけでなく、大人もですよ。

 

 

 

■今月の熊G 2022.9

熊Gが30代のころの話です。ある日、設計事務所の仲間と近所の食堂でランチを食べていました。その食堂には大きな円形テーブルがあって、われわれ五人と、反対側には先にいた家族連れらしい五人ほどがいて、相席で丸く囲んでいました。それぞれのグループは勝手にぺちゃくちゃおしゃべりを楽しんでいて、熊Gはフィラデルフィア市の交響楽団の話をしていました。楽団が年に一度開くこども向けのクラシック音楽イベントの話で「子どもは無料でさ、いつもは黙って指揮している専属指揮者がその日はいろいろ説明してくれるわけよ。その指揮者、なんてったっけな、えーとリッカルド・・・リッカルド・・・」「ムーティ!」「それだ!えっ?」それは向かいに座っていたおばさまの声でした。私の話を聞いていて、じれったくて思わず言ってしまったようです。テーブルのみんなで大笑い。

なぜこんな古い話を思い出したかというと、先日、交流している秦野のハレノヒ保育園であった講演会で、ゴリラの研究で知られる元京都大学総長の山極寿一(やまぎわじゅいち)先生のお話しを聴いたからです。そのなかで山極氏は霊長類が仲間といっしょに食事をする理由について話してくれました。

まず、サルやゴリラの研究をするのは人間の社会を知るためだ、と山極氏は言っていました。ゴリラやニホンザルの社会を内側から眺めてみると人間の社会を支えているものが見えてくるのだそうです。ところでこれは講演後の雑談のなかでうかがったのですが、ゴリラの群れに入るとは具体的にはどういう生活ですかと聞いたら、ネコみたいになることだと答えてくれました。たしかにネコは相手にもされないけど邪魔にもされないでだまってそばにいます。そうして観察しているわけです。でもゴリラの群れでネコになるのは簡単ではなくて、そうなるまでに数年かかるし、これまで世界中の霊長類研究者でゴリラの群れに入れた人は十指に満たないそうです。

さて、講演でのサルと霊長類の食事についての話です。サルは孤食でゴリラは共食なのだそうです。サルは身軽で木々の間を飛び回れるから食べ物に困らずそれぞれ勝手に食べる。一方ゴリラは群れで暮らし共同で子育てをするなかでちいさいなかまに食物を分配する。その理由は分配によっていい関係を結べたり、仲間の支持を得たりといった社会的な恩恵があるからと考えられているそうです。

そして霊長類の中でもヒトは広範に気前よく他人に食べ物を分け与える。ヒトは進化の過程で直立二足歩行ができるようになったことで、敏捷で強い者が猛獣のいる危険なサバンナから食物を仲間に運んでこれるようになった。するとそこに依存意識や他人の食欲への想像力が生じて仲間への共感やおもいやりが芽生えたのである、ということでした。いっしょに食事をすることで共感力が育まれたわけですね。その共感力のおかげで人類はいろんな危機を乗り越えることができたそうです。

また、共食と並んで共同保育がもうひとつの人類の進歩の力だったと話していました。サバンナでは幼児が肉食動物に狙われる。そこで幼児の死亡率を補うために、産んだ子が独り立ちしないうちに次の子を産む多産という道を選んだ。でもヒトの子は離乳は早いが成長には時間がかかる。だから一人では子育てできず、共同保育を行うようになった。この共食と共同保育という社会力が人類の進化の元になっているのだ、ということでした。

ということはピヨでやっているような大勢でいっしょにごはんを食べて大きくなる生活が一番人間らしい生活ということですね。

 

■今月の熊G 2022.8

熱中症警戒アラートが出るほど暑い毎日ですがいかがお過ごしでしょうか? 熱中症対策はエアコンがんがんですか?それとも浴衣で打ち水派?

Gの家にはエアコンがありません。いや、あるのですが20年くらい前に壊れたままほったらかしになっています。以前住んでいた東京のアパートからはずして持ってきたもので2,3年で壊れたんです。量販店の電化製品はなんでも10年で壊れるようにできてるみたいです。

その代わり扇風機が大活躍です。梅雨に入るころから24時間体制で稼働しています。実は暑さ対策というよりもカビ対策なんです。谷戸の一番奥に住んでいて、家の後ろ1mくらいから山なので木々の間を通ったひんやりとした空気が吹いてきてエアコンがなくても何とかなるんです。しかし、湿気がすごい。室内の空気を常にかき回していないと何にでもカビが生えます。鎌倉に越してきた当時、フランス人の建築家から引っ越し祝いにもらったワシリーチェアという有名な椅子の革にカビが生え、何度拭いてもまた生え、あまりにしつこいので風通しのいい外のテラスに置いておいたらカビが消えるどころか鉄がサビてしまい、どうしようもなくなって捨ててしまいました。そのあとその友人に事情を話して謝ったら「あれを捨てた⁉」と信じられないという顔をされました。買ったら数十万円するやつだったのです。まあ、本人も何かの賞品でもらったのですが。そのころからです。夏の間じゅう扇風機を回し続けるようになったのは。鎌倉の谷戸の夏、恐るべしです。

毎年八月が近づくと保育園で歌っている歌があります。「青い空は」という歌です。お子さんに歌ってもらってはいかがでしょうか。1番はこんな歌詞です。

青い空は青いままで子どもらに伝えたい

もえる八月の朝 かげまでもえつきた

父の母の兄弟たちの 命の重みを

肩に背負って 胸に抱いて

原爆で亡くなった人たちのことを忘れないでという歌詞だと思います。

ヒロシマ、ナガサキに原爆が落とされてから77年目の八月です。日本は世界で唯一の被爆国ですが、国連加盟国のうち6割の122カ国が賛成して採択された「核兵器禁止条約」に賛成していません。本来は真っ先に批准して核兵器廃絶のリーダーとして声を上げるべきなのに。政府の言い分は、核保有国が参加していないのだから条約には効果がないので参加しないというものです。納得できません。ほんとうの理由は核の傘を持つアメリカが怒らないように忖度(そんたく)しているのではないでしょうか。

忖度や同調圧力のために思っていることを言わないのは日本人にはよくあります。でも肝心な時に声を上げないと後悔します。言っておけば良かったと思ってもあとの祭りです。

声を上げたといえば、二人の女性が印象に残っています。一人はミャンマーの19才の女性、通称エンジェルさん。彼女のことは以前にもこの欄に書きました。昨年起きた軍隊のクーデターに反対して民主化を求めるデモに参加しているときに軍隊に頭を撃たれて亡くなりました。もし自分が死んだら臓器は移植に提供するというネットへの書き込みをしてデモに参加していました。命がけで声を上げていたのです。

もう一人はロシアの国営テレビ局に勤めていたマリーナさんです。ニュース番組生放送中のスタジオに突然飛び込んで「戦争反対!プロパガンダにだまされないで!」と書いた紙をカメラに向かって広げた人です。彼女はプロパガンダを放送する仕事をさせられていましたが、もう我慢できなかったとその行動の理由を語っています。今はドイツにいますが、ロシアに残してきた二人の子どもに会いたいと言っていました。

彼女たちのように私もいざというとき声を上げられる人間になりたいし、保育園の子どもたち、つまりこれからの世の中を担っていく世代にもそうした人間になって欲しいと思います。

 

それにしてもこの暑さ、最初に声を上げることは「地球温暖化を止めろ!」かな。

■今月の熊G 2022.7

プール出しのご協力ありがとうございました。

さて新年度、生活を見直そうと思いました。運動不足の生活を。ジョギングや空手をやっていたのは今は昔。自転車通勤をしていますが、何かの本に自転車はたいした運動にならないと書いてありました。かといっていまさらスポーツを始めるのは面倒くさい。ウォーキングが健康に良いらしいので歩いて通勤すればいいと思うのですが、自宅からピヨまでゆっくり歩いて1時間かかるので、12時間を使うことになります。時は金なり、もったいないなあ、そんな時間があったら本でも読んでいたいなあ、東京に通勤していたころは電車の中で本が読めて楽しかったなあ、と思っていました。

そんなとき、スマホのアプリで「オーディオブック」というものがあることを知りました。聴く本、ようするに本を朗読した録音です。これを聴きながらかよえば運動不足が解消できて本も読める、いや聴ける。さっそく会員になりました。ウォーキング用のシューズも注文して準備OK。

季節は春、歩くのにいい気候です。朝、いつもより早く家を出ました。イヤホンして聴きながら歩くと以外と自動車の音がうるさいことに気づきました。朗読する声優の声が一瞬聞き取れないこともあります。そこで歩くルートを自転車通勤しているときとは違う道に変えてみました。

西御門の自宅から附属小学校の前を通って八幡宮の境内を横断し、小町通りをすぐ折れて川喜多記念館のところで住宅地に入り、横須賀線の歩行者用踏切を渡ってアーバンクリニックの手前を曲がり、甘味処の近くの佐助トンネルを抜けて銭洗弁天に行く道に突き当たります。そこから市役所通りに出るまで静かな道が多く、ほとんど車の騒音が気になることはありません。

車に邪魔されずにこんなに歩けるなんて、鎌倉の町が散歩に向いていることに今さらながらに気づきました。実は建築家だったころ、たびたびまち歩きイベントに参加していたのですが、そのころは建物や路地の景観にばかり関心を向けていて、自動車の存在などあまり注意を払っていませんでした。それが、音が気になったことをきっかけに町の印象が少し変わりました。視覚だけでなく五感を働かせて生活することの大切さに気づいた経験でした。

「オーディオブック」にはたくさんの本がそろっています。一番多いのはビジネス書、啓発本のたぐいです。また源氏物語や芥川龍之介といった文芸書もあります。せっかくだから普段読まないような本を選ぶことにしました。

リストのなかに「夜と霧」という作品がありました。ユダヤ人で心理学者のフランクルという人が書いた本です。フランクルはナチス時代にアウシュヴィッツのユダヤ人強制収容所に送られ、ほとんどの収容者が死んでいった中、すんでのところで連合国軍に開放されて生還しました。その収容所の体験を本にしたのがこの作品です。それによると、収容所に入るとまず選別が行われ、体力のあるものは強制労働をさせられました。フランクルたちは厳寒の地でまともな防寒着もないまま道路工事などの土木作業に従事していました。夜は板張りの棚のような寝台に身動きができないほどびっしりと並んで寝ました。そして食事は一日に具のほとんどないスープ一杯とひとかけらのパンだけでした。寒さ、重労働、栄養失調で伝染病がはびこり、次々と亡くなっていきます。身体だけでなく精神状態も異常なものになっていったそうです。

 

その本を数日かけて聴いた後のこと、長野県の松代にある松代大本営跡地を訪れる機会がありました。太平洋戦争末期、本土決戦を覚悟した日本軍は東京の空襲を避けるため松代の山の中に巨大地下壕を堀り、そこに指令本部である大本営を移す計画を立てます。完成直前に終戦となり土がむき出しの地下壕が残りました。見学の案内人の話では、掘削作業をしたのはほとんど朝鮮人で、貨車で脚を繋がれたまま連れてこられ、強制労働をさせられました。食事はヒエという穀物のおかゆで、消化しにくいため栄養がとれなかったそうです。日本軍もナチスと同じことをしていたんだなと思いました。

そうそう、「オーディオブック」には童話もたくさんあって楽しめます。

 

でも子どもはスマホからお話しを聴くんじゃなくて、大人からの「また聴き」にしてくださいね。

■今月の熊G 2022.6

今年度のピヨピヨ保育園の目標は「生活」です。先月の全体会(YouTube配信)でそうお話ししました。目標を生活と決めてからその言葉が身の回りでやたら目につきます。たぶん自分が意識するようになったのでそれまで気に留めなかった言葉に注意が向くようになったのかもしれません。みなさんはいかがですか。生活、気にしていますか。

先週、年長さんたちのお泊まり保育がありました。一日目は朝から横浜の動物園に行き、午後は夕食のカレーを自分たちでつくり、お腹いっぱい食べて布団を並べて眠りました。二日目は朝食を食べてから藤沢の田んぼに出かけ、家族と落ち合っていっしょに田植えをしました。田植えの後、芝生の上でみんなでお弁当を食べて解散しました。

その二日目の朝食はシラス丼と具だくさんの味噌汁でした。シラスは本業がシラス漁師のおひさま組担任の安齊さんが届けてくれたものです。

その朝、ちょうど年長さんたちが園でシラス丼を食べている時間に、私が家で支度をしていたらラジオから「湘南シラス漁が最盛期を迎えています、この時期特有の甘みがあります」との情報が流れてきました。朝4時過ぎに出漁して、水揚げしたらすぐに釜揚げにするからおいしいのです、とアナウンサーが紹介していました。子どもたち、さぞかしおいしかったでしょうね。

シラスの情報に続いて、ラジオはサタデーエッセイというコーナーになり、解剖学者の養老孟司さんが出てきました。「今日は少し真面目な話をします」といって話し始めました。鎌倉にお住まいの養老さんは昆虫が大好きなことでも有名です。虫好きはふつう珍しい虫、捕まえたら有り難い虫を捕ろうとするけれど、最近の養老さんはいつでも捕れるどこにでもいる虫をとっているそうです。「そういう虫がとれたら安心する」と言っていました。どういうことでしょう。

コロナなどの災害やウクライナのような戦争があると日常性が破壊される。例えば日本だったら近い将来、南海トラフ地震によって大きな被害を受けると普通の生活が壊されるだろう。すると人々の考え方、常識が変わってしまう。それまで守ってきた大事な価値観を捨て、背に腹は代えられないという考え方になってしまう。だからどこにでもいる虫が捕れる生活ができているうちは安心、それこそが有難いのだ、という話でした。

この養老さんの話を聞いて、全体会で紹介した詩人の谷川俊太郎さんの「普段の生活を守ることが戦争反対になる」という言葉を思い出しました。その言葉の真意がよく分からなかったのですが、もしかしたら普段の生活をしているうちはまともな考え方でいられるが、日常性が壊れると戦争を肯定する考え方に与(くみ)するようになる、だからみんなが普通の生活を守ることが戦争を避ける世論を保つのだ、という意味なのではないかと思いました。

その前の日曜日にもラジオをつけていたら日曜討論という番組をやっていて、観光業の話題を話し合っていました。すると鎌倉の観光がどうのという声が聞こえます。おや、聞き覚えのある声だと思って同時に放送しているテレビをあわてて点けてみると、ピヨの理事会のメンバーである進藤さんが出演していました。進藤さんは現在、鎌倉市観光協会にお勤めなのです。鎌倉の観光に市としてどう考えているかとの司会者の質問に進藤さんはこう答えていました。「今、市内にホテルが増えています。これまでの日帰り観光でなく、ぜひ一泊してじっくり鎌倉の町をみて欲しい。朝早く起きて由比ヶ浜海岸まで散歩に行って、シラス漁の船が沖に出て行く光景や、朝日に照らされた富士山を眺めてください」と。それは私たちの町の日常の風景ですよね。名所やお土産屋さんなどの観光客相手の見所を回るだけでなく、地元の人たちの生活を知ることだって旅の楽しさであるということでしょう。

とはいえ、4時に起きなきゃいけないのはちょっとつらいかもしれませんね。

 

 

 

今月の熊G 2022.5

ニンニクって、どんなふうに実るかご存じですか?スパゲッティをつくるときに刻んでいるニンニクが、畑でどんな形で育っているのかなんて考えたことありませんでした。答えは土の中に埋まっているのです。スーパーに並んでいるのはきれいにして半乾燥させたニンニクの球根なのです。知っている?そうですか。ではニンニクの芽はどこにあるでしょうか。中華料理店などで炒め物として出されるアレです。ニンニクが畑で植わっているのを見ると大きなニラの束みたいに見えます。葉っぱが束になって伸びている真ん中に、一本だけネギの穂のような帽子をかぶった細い芯があります。それが芽です。ひと株から一本しかとれません。だからいい値段がするんですね。

この大型連休中に農家をしている友人の畑に行ってきました。完全無農薬の有機栽培の畑です。ニンニク以外にもいろいろな野菜を作っていました。人参とか大根もあったけどズッキーニとか細長いキャベツとか横文字の新しい品種を数多く育てています。

スナップエンドウも作っていました。その場でもいで食べてみたら味が濃くて甘くておいしい。じつは以前はそれほどおいしくできなかったそうで、そのころは春先に植えて夏に収穫していたけれど、時期を変えて秋に植えて冬を越して育ててみたら味がぜんぜん違ったのだそうです。寒い季節を耐えて育つと味が良くなるようだと言っていました。また、農薬をまかないと虫に食われるのではないかというと、発酵した植物性肥料を入れたいい土で育った元気な野菜には虫がつかないとのこと。菌ちゃん先生が言っていた通りですね。友人は「農薬使ってる野菜は気持ち悪くって食べられない」といいます。

その畑の周囲には別の農家の畑が広がっていますが、そちらは従来型の農薬を使った農業(慣行農業と呼んでいました)なので、農薬がこちらの野菜にかからないように数メートル幅の緩衝地帯を設けています。作っている野菜の種類も全然違うし、なんだか韓国と北朝鮮の国境地帯みたいです。

その友人というのは、熊Gが幼稚園のときの同級生です。小学校、中学校、高校と同じ学校に通っていつもつるんでいました。でも社会人になってからはたまにしか会っていませんでした。彼は勉強が好きじゃなくて学生時代はヒマさえあればギターを弾いている男で、友人たちからはギタリストになるのだろうと思われていました。それが大人になって久しぶりに会ったとき、システムエンジニアになっていて仲間とIT企業を起業していました。へえ、数学とか全然まじめにやってなかったのに。ところが数年前に会社を辞めてこんどは農業を始めたと言って、先日段ボール箱で野菜を送ってくれました。おいしい野菜でしかも有機農業だというので、これはひとつ見学に行かねばなるまいと思ったのです。

前の会社の同僚と2人で野菜をつくっていますが、まったくの素人なのになぜ難しい有機農業ができるのかと聞いてみると、東京農大の教授に教わっているとのこと。何でそんな人を知ってるのかというと、畑を始める前に農業学校で勉強したときに講師で来ていたその先生のところに押しかけてその後もいろいろ質問しているんだって。ようするに凝り性というか、コレダと思ったことにはどんどんのめり込んでいくタイプの人間なんですね。

地域の農家ともちゃんとつきあっていて、最近はその人たちも彼の影響で少しずつ農薬をやめる動きが出始めているそうです。本人も新しい農地を借り増していい土の畑を広げつつあるのですが、今の悩みはその畑を引き継いでくれる若い後継者がいないことだそう。ウクライナ危機で世界の流通システムが見直されていますが、食糧自給率の低い日本は近い将来食糧危機を心配する事態になるかも知れない。小麦を輸入できなくなって、パンが食べられなくなるかも。来たれ、若人、農業へ。

そういえば、友人の畑では麦も植えていました。ずいぶん密集して植えていると思ったら、その麦は収穫するのではなくて、緩衝地帯の農薬よけであり、また土に鋤き込んで肥やしにするためらしい。そんな麦の使い方もあるのか。あいつ勉強してるなあ。野菜と同じにしたら悪いけど、子育ても学びが大切ですね。

 

 

今月の熊G 2022.4

新年度早々コロナによる休園となり、保護者のみなさまには大変ご迷惑をおかけいたしました。

なんだか暗い話題ばかりのこの頃ですが、せっかくの春なので明るい話題をひとつ。

昨年、新聞に知っている顔が出ているのを見て10年前の出来事を思い出しました。10年前といえば、その前年に東日本大震災があった年です。当時、私はある大学の研究室で建築学を教えていました。その研究室に似鳥(にたとり)君という優秀な学生がいました。その彼がある日、自分の父親の出身地である陸前高田のためにボランティア活動をしたいので手を貸して下さいと言ってきました。

陸前高田は津波で大きな被害を受け市街地がまるごと壊滅してしまった町です。浜の松林で1本だけ流されなかった「奇跡の一本松」を覚えている人もいるでしょう。

似鳥君の話はこうでした。その市街地から小高い丘をこえたところに小さな集落があり、そこも海に面しているので半分くらいの家が流された。海岸の近くにあった公民館も津波で流されてしまったため、住民たちは復興の話し合いをする場所がなくて困っている。だから集会所を建ててあげたい。父の知り合いで家を流されてしまった人がその土地を使っていいといっている。自分はまだ実務の経験がないのでサポートしてほしい、と言うわけです。

震災で困っている人たちの役に立てるならと了解し、ところで予算はいくらだと聞いたらお金はないと言います。建設費がなくては設計したってしょうがないではないかというと、父と相談中とのこと。数日後、相談しましたと言ってあるエピソードを話してくれました。

以前、似鳥君が朝起きたら居間に知らないおじさんが寝ていた。前夜父親があるパーティーで知り合って意気投合し、家に連れてきた人で、名字が同じだったので盛り上がったとのこと。その人は似鳥と書いて「にとり」と読む。父親はその人に建設費の支援を頼んでみようと言ったそうです。

ピンときましたか。そう、その朝酔っ払って寝ていたおじさんは「ニトリ」の会長の似鳥昭雄氏だったのです。似鳥会長は500万円出してくれることになりました。その予算に収まるようにコストパフォーマンスを重視した設計をして小さな集会所が完成しました。集落のみなさんが喜んでくれました。

建物ができ、私と似鳥君と町内会長で似鳥氏にお礼を言いに行くことになりました。似鳥氏のいる会長室はある郊外のニトリの店舗の上階にありました。エレベーターで上がって驚きました。ニトリの店舗はどこも体育館が三つ四つ合わさったくらい広いのですが、その広大なワンフロアにビシーッと事務机が一方向を向いて整列していて、奥の方はかすんで見えないくらいです。まるで映画のよう。そこを横断して会長室に案内されました。

似鳥氏に会うのは初めてでしたが、とても気さくな人物でした。資金提供のお礼を述べたあと雑談になり、家具屋になる前は土方をやっていたなどと自身の生い立ちを話してくれました。話しながら鼻をほじくっていたのが印象に残っています。案内してくれた秘書さんが帰り際にそっと、会長があんなに機嫌がいいのは珍しいですと言っていました。

そのなつかしい似鳥氏の顔写真が新聞に出ていたので読んでみると、なんと見出しに「発達障害と判明」とあります。そのインタビュー記事によると、一代で売上高7千億円の企業を築き上げたが、実は小学4年生になっても自分の名前を漢字で書けず、人の話をずっとは聞けず、クラスでは馬鹿にされ、成績はいつもビリだった。整理整頓ができず、なくし物も多くてカバンも忘れてきちゃう。最近テレビで発達障害を知って医師に見てもらったら正真正銘のADHD(注意欠如・多動症)ということがわかってホッとしたと。周りから変わった人と言われてきて、奥さんからも「あなたは誰でもやれるようなことはやれないで、誰もやらないことがやれる」と。好きなことは集中できるので成功したと。

そして最後に「人の欠点ばっかりみて叱るのは最悪です。短所はもう仕方が無い、なおらないしね。親も、小さな頃から子どもの向いているものを探し出して「これ、やってみたら」と言ってあげることが大事です。」と語っていたそうです。鼻をほじくっていたかはわかりません。

 

 

今月の熊G 2022.3

うみ組のみんなはもうすぐ卒園です。来月には小学生です。うみ組保護者の皆様には私が園長になる前から、さまざまなご協力をいただいてきました。皆様のご協力とご理解があってこそピヨはピヨらしい保育を実践することができています。

 

ピヨの理念は「信頼で結ばれた育ち合いの輪を地域へ広げる」というものです。子どもだけでなく大人も育つ、つまり子育てをすることで親として、あるいは保育者として育つということ、その共同体がピヨだという意味です。ならば私も日々園長として育っているはずです。園長になって丸4年ですがどうでしょうか。先日あるお父さんに「熊Gがきた1年目は先生たちとの間にすごい溝があったよね」と感慨深げに言われました。溝、確かにありました。職員会議でモメて当時の主任が怒って帰っちゃったとか。もう熊Gは何考えてるんだかわからない!ともよく言われました。その原因は単に異業界から突然やってきたからというだけではなくて、私の人間性に起因するものだと思います。しまいには同僚となった妻からも「あなたってそういう人だったんだ」と言われる始末。やれやれ、でもそういった、いくつもの摩擦を経ていくうちに職員との溝はだんだん埋まってきたと思います。

 

一方、保護者の皆様との信頼も簡単には築けません。ただでさえお話する時間が少ないところに特にここ2年はコロナ禍によってふれあう機会が減っています。だからこそ昨年春の全体会で年間の目標として「対話」を掲げました。その効果があったのか、ピヨバスをどうするかや、運動会の保護者参加をどうするかなどを、職員たちだけでなく皆様のご意見もうかがって決めることができました。

 

そのあと、うみ組の保護者の皆様と、卒園アルバムの話し合いが始まったのです。

 

経済的な理由からえんフォトに出している全写真データを無償で提供して欲しい、というのが最初の話し合いでの皆様の要望でした。一方職員たちは作業に当たる担当の保護者に負担が集中して、ご本人やお子さんへ悪影響が出ることを一番心配していました。また、提供する枚数が増えるに伴って個人情報流出の可能性が高まることも懸念していました。えんフォトから購入するなら枚数も情報流出リスクもある程度抑えられると考えたのです。

 

しかし、私が話し合いで皆様に問うたのは、どんな卒アルにするのですかという編集の意図でした。

 

世の中には卒園証書とはこういうもの、記念写真とはこういうもの、という常識があるように、卒園アルバムとはこういうもの、という常識があると思います。また写真が多いほどアルバムとして価値があるという考え方もあるでしょう。それは普通です。それはわかっているのですが、私は常識や普通を理由にしてほしくなかった。ピヨの保育は普通でしょうか。赤ちゃんからパンツ、ごはんは手づかみ、ケンカや木登りは見て見ぬふり、冬でも水シャワー、テレビは見せない、文字も挨拶も教えません。普通じゃない。でもその一つひとつに意図があります。卒アルの編集の意図についてはこれまで一度も聞いたことがありません。そもそも保護者がつくるものの意図を園に説明する必要もありませんが、それ以前に編集の意図については保護者間でもあまり問題にされないのかなと思います。

 

しかし私はあらかじめ年長の保護者の皆様で意図を議論して欲しかったのです。そうなればどうしたってピヨでの生活は子どもにとって何だったのかという話になるでしょう。ピヨの保育を振り返って皆様で共有してもらい、その結果としてアルバムが常識や枚数にとらわれないピヨらしいものになることを期待しました。それが私の希望でした。

 

でもそれは私の自分勝手な理想でした。自分勝手すぎて皆様にも職員にもうまく説明できませんでした。だから話しがかみ合わなかったのです。2度の話し合いがかみ合わないまま紛糾した原因は私の勝手な理想とその説明不足にあり、ひいてはこれまでの職員との溝の原因もそこにあったのです。

 

今回、卒アルについての年長保護者の皆様とのやりとりを通じてそのことに気づきました。これを機会に、ひとつ園長として育つことができたら幸いです。

 

卒園おめでとうございます。

 

 

今月の熊G 2022.2

先月はとうとうピヨもコロナの波にのまれて休園となりました。保護者のみなさまには日々の生活やお仕事にご不便をおかけしました。その後もピヨの関係者に何人も陽性者が出ています。幸い、重い症状になった人はいませんが、つぎは私かも、あなたかも知れない状況です。引き続き感染対策をお願いします。

 

***

 

先週、「菌ちゃん先生」こと吉田俊道さんの講演会を聴きに行きました。菌ちゃん先生は無農薬野菜を広める活動をしています。菌ちゃん先生のことは以前この欄にも書いた、映画「いただきます2 ここは発酵の楽園」で初めて知りました。映画で先生は保育園の園児たちに畑の作り方を教えていました。ただ植えて収穫するだけではなくて、園児たちと土づくりからはじめていました。良い土を作ることによって農薬も化学肥料も使わず、虫が食わないおいしくて栄養のある野菜ができるのです。良い土とは野菜のためになるいい微生物、つまり菌ちゃんがたくさんいる土のことです。

 

映画を見た熊Gはピヨでも畑をやりたいなと漠然と考えていました。そんなある日、近くに畑を借りられるかも知れないという話が舞い込んできました。さっそく見に行かせてもらうと、確かにピヨのすぐ近く、広さも駐車場2台分くらいで子どもが初めてやるには手頃なサイズです。しかし予想と違い子どもの背丈ほどの雑草で草ぼうぼうのやぶになっていて「え?これが畑ですか」と思うような土地です。なんかイメージとちがうなあと思っていました。

 

そこへ先週、菌ちゃん先生が鎌倉で講演するという話を聞き、駆けつけたのです。菌ちゃん先生は映画で見たとおりの飾らない人柄で、無農薬野菜のすばらしさと畑作りのノウハウを楽しく話してくれました。講演が終わった後、今日の話を私たちの保育園に来てみんなにしてください、といったら快諾してくれました。それだけでも大きな収穫なのですが、会場で売っていた先生の本を買って帰って読んだら、こんなことが書いてありました。

 

菌ちゃん先生はもともと県庁の農業担当職員として働いていましたが、無農薬農業を広めたいと思って退職し、まずは自分で農業をはじめました。試行錯誤で無農薬農業をはじめましたが野菜が虫に食われてなかなか思い通りに行かなかったのです。ところで菌ちゃん先生は農家ではないので畑を持っていません。だから人から借りなくてはならないのですが、まとまった畑は借りられないのであちらこちらにバラバラに借りました。借りた畑のなかに何年も耕作放棄地になっていて、背丈ほどの雑草でジャングルになっているところがありました。そういう土地は土が見える状態にするだけで大変な作業だったのです。だから菌ちゃん先生は最初こんなところ借りるんじゃなかったと思っていました。

 

ところがそのジャングルから畑に復元したところでつくったタアサイは青々としておいしそうなすばらしいできでした。一方、借地をはじめる前から、長年よく耕して整地されていた畑は、どんなにいい堆肥を使っても、かなり虫に食われたタアサイになってしまったそうです。どうしてでしょう。

 

10年近く放ったらかしだった土地では、勝手に草が生えて、何年間も草が直射日光を浴びてきました。そのエネルギーいっぱいの草が枯れるとそれを虫や微生物が食べるので、耕作放棄地は最初から微生物の密度がはるかに違うのです。草や木が微生物によって分解されてできた「腐植」はさまざまな微量ミネラルをバランスよく豊富に含んでいるので、根を通して野菜に最高のパワーを与えます。その結果、元気いっぱいの野菜には虫が嫌いな「ファイトケミカル」がたくさん含まれるようになって虫に食われないというわけです。

 

ということは、ピヨが借りる土地は最高の畑になる土地じゃないですか。では、はりきって今年からここで子どもたちと畑作りをしたいと思います。

 

いい土で育った野菜は元気いっぱいで虫に食われないという話、なんだか子育てと似てますね。家庭や保育園が子どもの根っこに栄養を与えるいい土のようにならないと。そのためには大人がそれぞれいい菌ちゃんにならないと。

 

 

今月の熊G 2022.1

明けましておめでとうございます。

 

クリスマスのあと、子どもたちが「モエロー!モエロー!」と歌っているのを見ましたか?1224日のクリスマス会で子どもたち全員の前で「森は生きている」の劇中歌を職員みんなで歌ったのですが、そのなかの一曲のサビが子どもたちに大人気で、その後しばらくあっちこっちで「モエロー!モエロー!」とやっていましたよ。

 

ピヨでは年長になると毎年冬に上演される「森は生きている」をホールに観に行きます(ここ2年はコロナのためオンラインで観ています)。1943年にソ連で創られた児童劇の名作で、日本でも半世紀以上の長い間上演され続けています。勤勉なみなしごが森の精たちの助けを借りてわがままな女王の心を成長させていく物語です。

 

その劇の中に、一見あまり本筋とは関係のなさそうなひとりの脇役が登場します。博士です。博士はその国最高峰の知識を持つ学者で女王の家庭教師です。女王はいつもわざと間違えて博士を試します。博士は学者として間違いを指摘すべきだとわかっているが、そうすれば反逆罪で死刑になってしまうかも知れないと恐れている。そのため博士の授業は真理に反するデタラメな教えに終始する。劇中歌に「博士のなげきの歌」があって「♪真理は尊く命もおしい 生きるか死ぬか 矛盾のせかい〜」と博士はもだえます。この劇の登場人物の中で熊Gが一番好きな役柄です。

 

話は変わりますが、今年の正月、熊Gはあるテレビドラマを見て過ごしました。脚本家の三谷幸喜がネットで紹介していたアメリカのドラマで、三谷さんが「すごくよくできている。私がこれまで観てきたあらゆるエンターテイメントのベスト3に入る」と評価していました。三谷さんがそこまで言うならおもしろいに違いない、正月休みに見ようと思っていました。(「チェルノブイリ」U-NEXT配信)

 

それは1986年にソ連で起きたチェルノブイリ原発事故を描いた作品です。主人公は実在した物理学者で、ストーリーはほぼ事実に沿っていて彼の残した手記がもとになっています。この博士が事故直後から現地で事故の対応にあたります。博士は人的被害をできるかぎり食い止めようとする過程で、ソ連の原子力技術は完璧だといってきた政府の建前と幾度もぶつかりますが、なんとか事態を収拾します。でも事故の原因は博士にもわからない。理論的には原子炉の爆発は起こりえないのです。しかし瀕死の原発職員たちからの聞き取りや昔の論文の発見などにより、しだいに事故当日の原発内での出来事が明らかになっていきます。(見るならこの後読まないで)

 

博士が解明した事故の原因はこうです。その日、チェルノブイリ原発の技師のリーダーはある実験の指揮を執っていました。それは原発運転の電源が止まってしまった場合の緊急対応の実験で、実験成功が原発稼働開始の条件です。リーダーは計画通りにその実験は成功していると政府に報告をして原発を動かしていますが、実際はまだ成功していません。ウソがばれないうちに実験を成功させたい彼は当日の悪条件にもかかわらず若い職員に実験を強行させます。その結果、操作不能の事態を引き起こしてしまう。核反応が暴走しはじめた原子炉。あわてた職員が核反応を止めるはずの制御棒のスイッチを押した次の瞬間、原子炉が爆発・・・・・・。

 

実はソ連の原発は制御棒の設計にミスがあったのです。しかしそのミスは隠されていました。ミスがわかった時点ですでに多くの原発がソ連国内で稼働していたのです。チェルノブイリの技師たちも知らなかった。博士が図書館で発見した、ミスを告発した論文は肝心の部分が政府によって切り取られていました。博士は目次から推論しました。

 

時代はまだ冷戦下、真実を話せば国家の基盤がぐらつき、博士の命もあやうい。IAEA(国際原子力機関)での事故報告会で博士は自分のつかんだ事実と異なるウソの報告をします。でもその後にソ連国内で開かれた法廷で、博士は迷った末、意を決して真実を語ります。「原発の爆発を招いた本当の原因は・・・“ウソ”だ」。2年後に彼が自死したあと手記が学者の間に広まって、政府はミスを認めました。

 

ソ連が生んだ二人の博士のお話でした。ウソはつきたくないですね。

 

 

今月の熊G 2021.12

年長と丹沢の三ノ塔に登りました。本当は先月登るはずだったのですが大雨が降って延期になり、12月になってしまいました。その日も曇り空で、山頂に着いた頃には小雨も降り出しました。晴れなら富士山や関東平野の雄大な眺望が楽しめるのですが、すっぽり雲の中に入って360度真っ白けでした。休憩小屋であったかい蜂蜜レモンを飲みました。

 

お泊まりする国民宿舎に着いて部屋が決まったらさっそくお風呂に入りました。熊Gは男の子3人ずつと入ります。子どもといっしょに風呂に入るのは久しぶりです。大人3人用の大きさの湯船で子どもたちは飛び跳ねたり潜ったり大はしゃぎです。今回は貸し切りなので他人に迷惑をかける心配はありません。そこで「タオルで風船つくるの知ってるかい?小さい子がよろこぶやつだけど」と言ってタオルをお湯の中でふくらませてみせました。そんなことするのは20何年ぶり。子どもたちも順番にやっていました。

 

山くもり子どもと遊ぶ宿の風呂

 

†††

 

先週、セキが出てのどが痛くなったのでもしやコロナかと思いました。でも半年前にものどの奥がひどく腫れて声が出なくなったことがあったので、同じ耳鼻咽喉科を受診しました。検査の結果、ハウスダストのアレルギーと言われました。

 

そこで日曜日に用事のついでにピヨの2階の事務所を掃除しました。本棚にハタキを掛けたりコピー機の裏に掃除機を掛けたりしてホコリを追い出しました。そういえば昨年職員の一人が事務所に入るとセキが出るというので徹底的に掃除しましたっけ。一年ぶり。子どもたちが毎朝ゾウキン掛けしているのに大人がサボってちゃいけませんね。

 

ホコリをかぶったから家に戻ってまだ明るいうちにひと風呂浴びました。おだやかな陽気だったので窓を開けて入っていると風に乗って落ち葉が窓から入ってきて湯船に浮かびました。

 

小春日に飛んで湯にいる枯れ落ち葉

 

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もうすぐクリスマスですね。ピヨにも新しいモミの木が届きました。皆さんのお宅ではクリスマスはどのように過ごされる予定でしょうか。

 

熊Gが小さい頃、クリスマスイブの夕食には鶏の骨付きもも肉が出て、翌朝起きると枕元にプレゼントが置いてありました。小学校2年生頃までサンタクロースはいるんだと思っていました。

 

これは約100年前にシアトルのある家族に起きた本当のお話です。そのころアメリカは大恐慌でその子の家も失業して家計が破綻していました。

 

わが家にツリーはあったがプレゼントはなかった。そんな余裕はとうていなかったのだ。クリスマスイブの晩、私たちはみんな落ち込んだ気分で寝床に入った」ところが翌朝起きてみるとツリーの下にはプレゼントの山が積まれていました。

 

それから、浮かれ騒ぎが始まった。まず母が行った。期待に目を輝かせて取り囲む私たちの前で包みを開けると、それは何ヶ月か前に母が「なくした」古いショールだった。父は柄の壊れた古い斧をもらった。妹には前に履いていた古いスリッパ。弟の一人にはつぎの当たったしわくちゃのズボン。私は帽子だった——11月に食堂に忘れてきたと思っていた帽子である」みんなゲラゲラ大笑いしながら包みを開けていったそうです。

 

でもいったいどこから来たのか、これらの気前よき贈り物は?それは弟のモリスの仕業だった。何ヶ月ものあいだ、なくなっても騒がれそうにない品をモリスはこつこつ隠していたのだ。そしてクリスマスイブに、みんなが寝てからプレゼントをこっそり包んで、ツリーの下に置いたのである(P.オースター編「ナショナル・ストーリー・プロジェクト」新潮文庫)

 

今、世界にはコロナ禍で例年のようにクリスマスを祝えない家庭が少なくないと思います。でも家族を思う気持ちがあれば楽しいクリスマスになるのですね。ピヨでは職員が歌のプレゼントをします。目下、猛練習中です。

 

 

 

今月の熊G 2021.11

ピヨバス募金にご協力いただいた方、即売会でお買い上げいただいた方、どうもありがとうございます。おかげさまで目標額を大きく上回るおよそ二百万円の募金が集まりました。驚くべき結果です。ピヨの関係者の熱い思いを改めて感じました。大切に使わせていただきます。詳しくは募金会からのお知らせをご覧ください。

ξ ξ ξ

毎朝、熊Gがフロアに出ていくと、たいていうみ組かやま組の子どもが寄って来て「ねえ、今日夕方時間があったらオハナシして—」とお願いされます。「時間があったらね—」と答えるとうれしそうに離れていきます。でもなかなかその時間はとれず、月に1,2度オハナシできるかどうかです。

 

Gのオハナシとはその場限りの即興です。ナンセンスな講談みたいなものだから教育的な意義は全然ありません。でも好きな子は絵本より喜んでいます。例えば先週のはこんな感じ。

 

イルカの背中に乗って海を旅しているピーター君が新しい島を見つけました。島全体が真っ赤です。上陸してみると森が島をおおっていて、その木々には真っ赤でいい匂いの果実がたわわに実っているのです。ピーター君が歩いていくとおじいさんがいました。「おじいさん、この実は食べられるのですか?」「食べられるよ。とてもおいしいんじゃ」「でもどうして誰も採らないのですか」「それはな、この実はあまりにもおいしいので、一つ食べるともう一つ食べたくなる。二つ食べると三つ食べたくなる。そうして食べるのが止まらなくなって・・・・・・しまいにお腹が破裂して死んでしまうのじゃ。みんな死んでしまったのじゃ」「ええっ!こわいー!」おじいさんは実を一つ採ってピーター君に差しだしました。「ほれ、うまいぞ、食べてみよ。ほれ、ほれ」。とてもいい匂いです。ピーター君はお腹が空いていたのですごく食べたくなりました。「そうだ、一つだけ食べて、あとはガマンすればいいんだ」そう考えたピーター君はそれをもらって一口かじりました。なんとおいしい味でしょう。体が浮き上がっちゃうくらいおいしいのです。むしゃむしゃ、一気に食べてしまいました。そしてガマンすることを忘れて、思わずもう一つの実を木から採ってむしゃむしゃ、ゴックン食べました。そしてまた一つ採って・・・・・・。ピーター君のお腹はみるみるふくらんでいきます。おじいさんは木の陰でニヤニヤ笑っています。(あとひとつじゃ。あと一つ食べればお腹が破裂じゃわい。ヒヒヒヒ)・・・・・・

そのあと、孫娘が登場してピーター君を助けるのですが、そんなナンセンスな話を身振り手振り、擬音たっぷりで話すと子どもたちはゲラゲラ笑います。熊Gのヒザに乗っかってくる子がいます。とちゅうで勝手に口を挟んでくる子もいます。とても楽しそうです。

 

そういえば、熊Gが彼らと同じ年頃の時、父から布団の中で擬音ばっかりのアドリブのオハナシを聴いておもしろくて何度も話してもらった記憶があります。

 

たぶん、ストーリーよりも情景描写が子どもの気持ちに訴えるのだとおもいます。古典落語でたいしておもしろみのない筋の話があるのですが、この人がそれを演(や)るとたいへん受ける、という人がいるそうです。古典落語はお客さんは筋を知っていて聴いているので、醍醐味はその語り口なのです。おうちでもテレビを消して子どもにオハナシをしてあげてください。どんな中身でもいいのです。きっと子どもは楽しそうに聴くはずです。

落語の話が出ましたが、先月、柳家小三治という落語家が亡くなりました。大変ショックを受けました。我が家のみんなが小三治を好きでした。息子がピヨに通っている頃から、毎年1月には家族7人全員で藤沢市民ホールに小三治を聴きに行っていました。78年ぐらい続いたと思います。訃報の次の日、Youtubeで十八番の「青菜」を夫婦で見ました。「・・・・・・ときに植木屋さん」「植木屋はおめえじゃねえかよ」涙を流して笑いました。

 

 

今月の熊G 2021.10

 収穫の秋です。今月は刈り取りの話題を2つ。

 

 一つ目はうみ組の稲刈りの話。

 

 親子で田植えをしてから4か月たった1010の日曜日、年長のみんなが田んぼ近くの駐車場に集合しました。あいにく小雨がパラつき始めましたが、合羽を着て準備OK。田んぼに着くと、黄金色の稲穂を重たそうに揺らしている稲が待っていました。

 

 農家の金子さんから稲刈りの仕方を教わったあと、大人と子どもがペアになって1本の鎌を受け取り、作業開始です。鎌は鋸鎌という種類で、刃がギザギザしていて、本当にカマキリの前脚によく似ています。田植えの時と同じように金子さんが刈り方のお手本を見せてくれましたが、鎌を株の根元にあてて1回引くだけでスパッと刈りとります。お見事!真似してやってみる子どもたちですが、さすがにスパッとはいかず、何度かギコギコして刈とっています。

 

 刈り取ったら数株を束にしてひもで縛ります。縛ったら真ん中で二股にし、田んぼにかけ渡したアルミパイプのはさに掛けます。はさ掛けまでがこの日の作業です。田植えした時にかぼそかった苗は見違えるように大きく育って田んぼを埋め尽くしています。今日中に刈り終わるかなと心配になりました。「全部刈り取らないとお弁当食べられないよ一」とハッパをかける熊G。ところが。田植えの時は途中でカエル取りに夢中になってしまった子どもたちでしたが、今回は違いました。子どもたちは黙々と鎌をギコギコしています。刈ったら運んで大人に縛ってもらい、なかには自分でがんばって縛っている子もいます。みんなが飽きずに働いているのを見てあるママは「収穫に喜びを感じるのは本能なんですかね」と言っていました。そうかもしれません。そして予定通りの時刻に刈り取り作業終了。雨も途中であがってお天気になり、また芝生の上で輪になってお弁当を食べました。

 

 

 

 二つ目は子どもの脳内で起こる刈り込みの話です。職員みんなで乳幼児の発達の勉強をしているなかで、脳の成長の過程で意外な現象が起きているこを知りました。

 

 脳の神経細胞からは植物の根のようなシナプスが伸びていて、そこから別の神経細胞に情報を伝達しています。この脳内ネットワークをつないでいるシナプスですが、成長とともに増えていくのかと思いきや、その量はO歳から4歳くらいまで爆発的に増加し、その後成長とともに半分くらいに減っていくそうです。

 

 育つ環境の中でよく使っているシナプスは残され、そうでないシナプスは除去されていく。これは「シナプス刈り込み」現象と呼ばれています。例えば感情をコントロールしたりものを考えたりする前頭前野のシナプスの刈り込みは4歳頃から始まり、思春期に急激に進みます。

 

 せっかくつくったシナプスをなぜ刈り込むのか?専門家によると「興味のあるスキルを向上させるために、必要のないものを捨てて、脳が得意なことや関心のあることに特化するため」です。植木の剪定みたいですね。枝振りを形よくするために、じゃまになる枝や葉を刈り込むわけです。

 

 乳幼児期に自然からの刺激を一杯に浴びることが大切で、心からの感動がコ胄熱や志を持った人間へと繋がってゆくのだ、と脳科学者の小泉英明氏が書いています。なぜでしょう。

 

 その意味を熊Gなりに考えてみました。自然から受ける刺激はさまざまです。シナプスが刈り込まれる時期に、自然環境から多様な刺激を受けると、それに応じた多様なシナプスが活性し、それらは刈り込まれずに残ります。その結果、その子は感受性豊かな人間になる。ところが例えば英語を熱心に勉強してあまり外に出かけない子の脳内では英語学習のためのシナプスが残され、自然の多様性を感じるシナプスは刈り込まれてしまうかもしれません。

 

 日曜日の田んぼで子どもたちは、小雨の冷たさやお日様のあたたかさを感じ、泥の柔らかさを足下に、稲の硬さを刃先に感じ、養豚場の臭いをかぎ、ザリガニの生命力に触れていました。彼らの脳には稲刈りの感性を伝達するシナプスが残されることでしょう。

 

 

今月の熊G 2021.9

 

マイクを持ったバスガイドさんが「みなさま、みぎてをご覧くださいませ。一番高く見えますのが中指でございます」というギャグがありましたが、とにかく、車窓から景色を見ながらみんなでわいわい揺られていくバス旅行は楽しいですよね。今はコロナで行けませんが、子どものころ、遠足や修学旅行のバスの中で順番に歌をうたったり、ガイドさんが出すクイズに答えたり、お菓子が回ってきたりといった楽しい思い出をお持ちだと思います。

 

ピヨの子どもたちがピヨバスに乗ってクラスのみんなで出かけるとき、バスガイド役は担任です。われ先に乗り込む子どもたちをベンチシートに2人ずつきちんと着席させるまでが最初のひと仕事で、○○ちゃんといっしょに座りたいとか、窓際がいいとか言ってもめる子どもたちをなだめて座らせてシートベルトをつけてあげます。「ベルトしましたかー」「シター!「では、出発!」「シュッパツ−!」

 

走り出したら子どもたちはもう楽しくなっておおさわぎです。担任が「これからどこに行くんだっけ?」と言うと「ウミー!」「海になにかいるかな?」「タコ!」「ウミボウズ!」「ウタ、ウタッテー!」「何の歌がいいの?」「○○ノウタ!」、合唱、「アッ!ココ、キタコトアル!」「アッ!マックダ!」「ここおいしいの?」「オイシー!」、また合唱……。大勢がいっぺんに話すのでそのにぎやかなこと。時々「〇〇ちゃんが何か言ってるよ」と担任が交通整理しておとなしい子の話も聞いてあげます。

 

ピヨバスは10年前にピヨピヨ保育園が由比ケ浜から今の常盤に移ってきたときに、駅からの送迎用に導入されました。その後送迎は廃止し、もっぱら園外活動の移動手段として使ってきました。この8月に5年のリース期間が終了したので契約通り返車するはずでした。時々しか使わない割にリース料や保守料などの固定費の負担が大きく、またパート運転手の退職もあって、しばらくは公共交通やレンタカーなどを活用することとし、新たなリースは組まない計画でした。また、この車両は大人が二人しか乗れないため付添いの保育士は別の車でついていく必要があります。そこで次のバスはもう少し定員が多いバスにしたいと思っていましたが、それを運転するには特別な免許が必要です。いつになるかはわからないけれども、将来、費用と運転手の目途がついたらそうしたバスを導入する方針です。

 

ピヨバスがなくなる話を先月、園バス閉じ込め事故関連のお便りに書きましたが、そのあと何人かの保護者からピヨバスをなくさないでほしいという声があがりました。またコロナ禍で公共交通の使用は避けてほしいという意見も出ました。

 

そこで保護者の有志が中古車の幼児バスを購入する手立てを探ってくれました。そのなかである園児の家族の会社がピヨバスのリース会社と取引があるということでピヨバスを下取りできないか掛け合ってくれました。その結果、すぐに決めてくれるなら例外的なケースとして売ってもいいと言ってきたのです。また、時々なら運転手を引き受けてくれるという人も出てきました。保護者ががんばっているからと保育園で臨時職員会議を開き、思い切って購入することにしました。

 

ただしそのお金は保育園の年間予算には入っていません。即金で払う条件だったのでとりあえず下半期の運営費を流用して支払いましたが、次の11月理事会までにその穴埋めの方策を考えないといけません。

 

この話を父母会とピヨピヨ募金会に相談しました。そして募金会が動いてくれて、ピヨバス募金としてできるだけお金を集めようということになったのです。どうぞよろしくお願いいたします。

 

無認可時代、当時の橋本園長がよく言っていた言葉に「一人の百歩より百人の一歩」があります。みんなで協力して乗り越えるのがピヨなのです。それで思い出すのは前由比ヶ浜園舎の床板のことです。その園舎はボロボロの中古のプレハブでした。本来なら床はベニヤ板なのですが、橋本園長は子どもが触れるところには本物のヒノキの無垢板を使いたいと願っていました。そしてみんなで一人床板1枚分ずつ募金してヒノキの床にしたのです。その床板は今、ピヨの塀になっています。

 

今月の熊G 2021.8

 

エンジェルさんを知っていますか。今年の33日、ミャンマーで軍事政権への抗議デモの最中に軍の銃撃で亡くなった19才の女性です。NHKスペシャルで取り上げられたので覚えている人も多いと思います。路上でデモ隊とにらみあっていた軍隊が自動小銃を発砲しはじめ、走って逃げようとしたエンジェルさんは後頭部に銃弾を受けて倒れたのです。軍によるデモに向けた発砲でもう900人近くが殺されています。自分も殺されるかも知れないという覚悟を持ってみんな抗議活動に加わっています。エンジェルさんは殺される3日前、SNSに「もし自分が死んだら角膜や臓器を提供したい」と書き込んでいたそうです。

 

19の頃の熊Gは予備校生で、試験勉強よりも貸しレコード屋からレコードを借りてきてはせっせとテープに録音するのが日課でした。自分が明日死ぬかも知れないなんて考えたこともなかったし、未来は草原のように自分の目の前に広がっていて、自由に歩いて行けるものだと思っていました。でもエンジェルさんにとって、自由な未来は命をかけてつかみとらなければ手に入らないものでした。

 

今日は長崎の原爆の日です。ピヨでは86日に子どもたちに原爆の絵本を読みました。原爆の被害の悲惨さ、いや原爆に限らず戦争がもたらした苦しみは体験した人でなければほんとはわからないでしょう。でも少しでもそれを伝えるために原爆の日に戦争や原爆の絵本を読んでいます。

 

戦争被害の悲惨さを知ることは、二度と戦争を起こさないために大切なことですが、なぜ戦争が起きたのかを知ることも、戦争を防止するために必要なことではないでしょうか。原因が分かっているならば、そうしなければいいのだから。

 

太平洋戦争がなぜ起きたのか、その原因をちゃんと子どもに言える大人はどれぐらいいるでしょうか。中学校で日本の近代史を習ったはずですが、教科書の最後の方なので、熊Gの学校では3学期に時間切れになって、後は読んでおくようにとかいわれて結局やっていません。よしんばやっていたとしても何年に何事変がありました的な年表の暗記だけで、本質的なことは理解できなかったと思います。

 

鎌倉にある栄光学園の歴史研究部の中高生は2007年、そこのところをしっかりと勉強する機会を得ました。近代史研究者の加藤陽子東大教授が栄光学園に出向いて丸5日間かけて日本が太平洋戦争へ向かっていった経緯について講義を行いました。その内容は本※1で読むことができます。講義ではさまざまな歴史的データを示して複雑な事情をていねいに説明しています。それを端折って戦争の原因を一言で言ったら加藤先生に怒られそうですが、端的に言うとこういうことです。日本は欧米をまねてアジアに植民地的領土を得ようとした。領土を得る目的は資源の獲得とソ連の侵攻の防衛です。それでまず中国と、次にアメリカと戦争をはじめた。

 

よく、負けると判っているアメリカとの無謀な戦争をなぜ始めたのかといわれます。じつは始める前に軍部は数字的なシミュレーションをしていて、結果は日本の負けと出ていました※2。しかしその分析結果を尊重しない一部の有力な軍人が開戦へと政府を押し切ってしまいました※3。そんなことは当時の国民は知らされていません。負けるとは知らないし、特高は怖いし、空気に逆らうとやばいからと、おおかたの国民は黙って国に従ったのです。そしてその結末が原爆投下なのです。

 

つまり、領土的野心と国民の沈黙が戦争の原因です。確かに戦争の被害をこうむったという意味では日本の国民は被害者ですが、侵略戦争へ向かう国の動きについて反対せず結果的にそれを許したという意味では加害者です。

 

 さて、原因がわかれば戦争をふせぐ方法も明らかです。領土的野心をもたないことと、国民が沈黙しないことです。

沈黙しないことのお手本、それが現在のミャンマーです。エンジェルさんが亡くなった日に着ていたTシャツには「Everything will be OK」(大丈夫、きっとよくなる)と書かれていたそうです。ピヨの子どもたちが19才になったとき、日本が戦争に向っていたら、エンジェルさんのように未来を信じて声をあげるひとであってほしいです。

 

1:加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』新潮文庫/※2:猪瀬直樹『空気と戦争』文春新書/※3:半藤一利『語り継ぐこの国のかたち』大和書房

 

 

 

 

 

今月の熊G 2021.7

とても暑い土曜日の午後でした。前の土曜日は警戒レベル4の大雨でしたが、その日は真夏の太陽が照りつけました。そんな中、恒例のプール出し作業を行いました。いつものようにたくさんのパパたちが駆けつけてくれて、職員と一緒にスコップを使ってプールを置く場所の地均しや排水口のドブさらいや溝掘りなどに汗を流してくれました。どうもありがとうございす。とても職員だけではやりきれません。月曜日にはプールに子どもたちの歓声が響いていました。パパたちが保育士といっしょにプール出しをしてくれるので子どもたちが楽しい夏を過ごせるのです。それと同時に、暑さの中の作業でみんな疲労困憊になりましたが、作業をしながらパパと保育士がおしゃべりでき、またパパ同士の間柄も少し近くなったような気がしました。これをきっかけに普段の会話が増えるようになればいいと思います。プール出しを業者に頼んでいる保育園もあります。お金で解決するメリットもあるかもしれません。でもピヨではいっしょに汗を流すことで得られるつながりを大切にしたいと思います。

 

 同じ土曜日、午前中に子育て講演会を開きました。講師は昨年も来てくれた発達障害が専門の星山麻木先生です。対面とオンラインのハイブリッド(混成)で職員、保護者、OB、交流園の関係者など合わせて80人近い人が参加してくれました。発達障害を多様性ととらえ、合理的配慮を権利と考える星山先生の講演は「困っている子を特別視するわけではないけれど、ちょっとした配慮や周りの温かい目があれば生きやすくなることを伝えてくださり、温かみのあるお話(ある参加者の感想)」でした。私としては「正義の太陽」の光が子どもを苦しめることがあるというエピソードに考えさせられました。保育士も保護者の皆さんもいろいろと気づかされたのではないでしょうか。今後もこうした職員と保護者がともに学び合える機会をたくさん持ちたいと思っています。

 

 

 

 

この春、私は似たような作業を藤沢でしました。年長クラスが借りることになった田んぼの地区の共同作業で、田んぼに水を引き入れる前に農家の人たちが総出でする用水路の整備です。2度にわたって参加させてもらい、スコップでドブさらいをしました。その作業を通じて地区の人たちと顔見知りになりました。おかげで田植えの当日にはご好意で隣の田んぼを遊び場に使わせてもらえました。勝手な思い込みかもしれませんが、共同作業に参加したことで農家の人たちのコミュニティに受け入れてもらえたような気がします。

 

同じ目的に向かって何かをいっしょにすれば人の距離は近づきますよね。作業でともに汗を流したり、同じ話を聴いて勉強したりすることで園と保護者のつながりがより緊密なものになると思います。

 

7月31日には京都大学の明和正子先生の講演会がハレノヒ保育園から配信されます。赤ちゃんの脳の発達の研究者です。前園長の橋本は園長時代によくお便りで脳の発達のことを書いていましたが、この分野では新しい研究成果がどんどん出ています。この講演会も視聴できますので別紙の案内をご覧ください。

 

研究成果といえば、先日テレビに京都大学の山中教授が出ていました。ファイザー製のワクチンの開発者のカリコ博士との対談番組でした。山中教授は動物では不可能とされていた万能細胞「iPS細胞」の作成に成功し、そのことがカリコ博士の研究の壁を打ち破るきっかけになったのだそうです。

 

カリコ博士 「不可能だと教わったことでも、それを不可能とは知らない人が可能にするかもしれません」

 

山中教授 「私がiPS細胞の研究を始めたとき、ある植物生物学の教授が私にこう言いました。『あなたは非常に困難だと言ったが、植物ならとても簡単なことです』と。その言葉が、私の考え方を変えてくれました。植物ができるのだから、動物でもきっとできると思うようになったのです」

 

カリコ博士 「不可能だと知らないからこそ実現できることがあります」

山中教授の話はなんだか子どもが新しい体験をするときの様子を思い起こさせます。常識や思い込みにとらわれずに思いのままやってみる、そしてその体験から学ぶ。その子どものような姿勢が新しい地平を開くのですね。

今月の熊G 2021.6

 

「鉛筆を持つみたいに苗を持って、水面から先っぽが出るように植えてくださいね」

 

農家のおじさんの説明を聞いたあと、年長さんたちはおそるおそる田んぼに入り、横並びになって慣れない手つきで苗を植え始めました。

 

今週の日曜日、藤沢の打戻地区にある小さな水田を借りて、ピヨで初めての田植え体験をしました。先月、園で箱の土にみんなで蒔いた種が3週間で鉛筆くらいの背丈の苗になりました。お母さん、お父さんも田んぼに入って子どもといっしょに作業します。あぜから目印のロープを引っ張る人もいます。総勢25,6人で40坪の、幼児棟のホールと同じくらいの広さの水田に苗を植え付けていきます。

 

今回、田植えをすることができたのは、年長担任の松本が知り合いの農家の金子さんと相談して田んぼを借りられたからです。今年の年長クラスはバケツで稲を育てる「バケツ稲」の準備をしていましたが、その相談を金子さんにしたところ、本物の田んぼでコメ作りをしてはどうかと提案していただいたというわけです。

 

なんとか半分植えたところで一旦あぜに上がり、水分補給しつつ、子どもたちはまだ田植え前の隣の田んぼでカエルを追いかけたり、大人たちは雑談したりして休憩。後半は慣れてきてペースも上がり、最後は大人たちが中心になって約1時間で田植えが終わりました。

 

そのあと近くの公園の芝生で丸くなってみんなでお弁当を食べました。働いた後のお弁当は本当においしかったです。食後、お母さん、お父さんから一言ずつ感想を言ってもらいました。なかなかできない経験ができた、子どもと過ごせた楽しい時間だった、などと言ってくださいました。中にはお店をやっているご一家から家族全員で出かけるのはこれが初めてという話も出たりして、保護者同伴の行事にしてよかったと思いました。屋外だからそれほどコロナ対策に神経を使うこともなく、広々とした風景の中で体を動かして、日頃のストレスが少し解消できたようです。そしてまた、コロナで普段話す機会が減っていた大人同士が同じ時間を過ごせたことで、クラスの連帯感を感じることができたのではないでしょうか。それは今回担任がとても期待していたことで、熊Gが全体会でお話ししたピヨの理念「信頼で結ばれた育ち合いの輪」が年長クラスに広がった一日でした。

 

その前日の土曜日には0才児クラスのクラス懇談会がありました。こちらは室内での開催だったのでしっかりとコロナ対策をとった上で行いました。対面とオンラインを併用した初めての懇談会でしたが、車で高速道路を走行中の家族も含めて全家庭が参加してくれました。4月に配布した『ピヨピヨ保育園で大切にしていること』の内容に沿って担任が話をし、手遊びや体の動きを実演したりしました。お父さん、お母さんからは子どもの名前の由来などを話してもらいました。入園式からはや2ヶ月、赤ちゃんたちはすでにピヨッ子らしさ全開で毎日ドロンコまみれになっていますが、ご両親たちはまだ初々しい感じが残っていて微笑ましい懇談会でした。これからピヨの育ち合いの輪に入っていって新しい力になって欲しいと思います。

 

さて、年長さんが田植えした田んぼですが、7月に土用干しといって一度水田の水を抜いて土を乾かします。そして9月の下旬には稲刈りをする予定です。また親子で稲刈りに出かけられるといいですね。刈り取ったら、田んぼに竿を渡して、掛け干しをします。何日か乾燥させてから脱穀して玄米にします。5060キロくらい収穫できるそうなのでピヨのみんなで食べられるはずです。

 

今回、ピヨが借りた小さな田んぼでは手で田植えをし、鎌で刈り取り、竿に掛け干しにして脱穀するまで、すべて手作業でやらせてもらえます。現在の稲作は田植え機やコンバインや乾燥機によってそうした作業はすべて機械化されています。当日も私たちが大騒ぎして苗を植えているとき、隣の区画では田植え機にまたがったおじさんが効率的に整然と苗を植え付けていました。

 

効率が優先される世の中にあって、逆に手間ひまをかけて何かを育てることができるということは幸せなことなんだなと思いました。

 

今月の熊G 2021.5

 

先日のオンライン全体会にご参加いただきありがとうござました。園からお伝えしたいことを発信するという一方通行的だった感もありますが、お配りしたアンケート用紙に感想やご意見を書いていただけると対話のきっかけになりますのでよろしくお願いします。

 

大型連休中にネット配信された映画「いただきます2 ここは発酵の楽園」ではタコのようなキャラの「菌ちゃん」の活躍が描かれていました。菌ちゃんは有機無農薬栽培の野菜の根っこのまわりに集まってきて生育を助けてくれる土中の微生物のことです。野菜の中にも入ってきて、元気の素になるファイトケミカルという物質をつくる手伝いをします。「虫は弱ってる野菜を食べるんだ」という農家の吉田さんのキャベツ畑では、農薬を使わないのに虫にくわれない。虫はファイトケミカルが嫌いなので、菌ちゃんがたくさんいる吉田さんの畑の野菜は食べないのです。

 

そして人がその野菜を食べると菌ちゃんはその人の腸内に移り棲み、こんどはそこで免疫力をつくる手伝いをします。免疫学の藤田紘一郎先生は「腸には食べ物と一緒に病原菌やウイルスが入ってくるので、それらを撃退する免疫細胞は腸に70%も集まっています。」そして腸に良い食事をとって「腸内細菌を活性化して、腸内フローラを美しく保つこと」が腸の健康を守ることだと言っています。

 

多種多様な菌ちゃんが腸内に棲みついている様子を腸内フローラと呼びます。おなかの中に花畑(フローラ)があるのです。ピヨの給食ではその花畑を美しく整えるバランスの良い食事を心がけています。だから子どもたちには苦手なおかずでも少しでいいから食べるように促しています。

 

ところで、藤田紘一郎先生はもともと寄生虫博士として知られています。1994年に出版された『笑うカイチュウ』はベストセラーになり、当時ちょっとした寄生虫ブームを巻き起こしました。寄生虫の卵は食材にくっついて口から入ってきて人の体内で孵化し、棲みつきます。虫がおなかに棲んでるなんて気持ち悪いと思うかも知れませんね。確かにまれに障がいを起こすこともありますが、ほとんどは特に悪さをするわけではなく、おとなしく生き続けます。それどころか藤田先生の研究によると日本で寄生虫が駆除されたころから花粉症やアトピーが出始めたそうです。花粉症などのアレルギーの原因はアレルギー物質に対処するためにヒトの免疫がつくる抗体が過剰に働いてしまうことですが、もともと寄生虫が体内にいると免疫系は過剰に働かないタイプの抗体を常につくる仕事をしていて、アレルギー物質がはいってきても新たに抗体をつくる余地がないのです。おなかに寄生虫を飼っているとアレルギーになりにくいというわけです。

 

寄生虫と言えば、ピヨピヨ保育園では昨年ギョウチュウが流行しました。そして全員が検査し、陽性者は薬を服用して駆除し、プールの前には園内からギョウチュウを撲滅しました。

 

ところが、そのとき服用した薬はたしかにギョウチュウを駆除しましたが、それと同時に腸内フローラをも痛めつけたはずです。寄生虫を殺す薬は腸内細菌も死滅させてしまうのです。赤ちゃんのころからピヨの庭で泥んこまみれになってさまざまな菌ちゃんを腸内に入れて花畑を美しくしてきたというのに。

 

1年前の熊Gは微生物の勉強が足りなかったのでこうした知識がありませんでした。加えてわたくし事ですが、この3月末にノドにひどい炎症がおきて声が出なくなりました。医者で抗生物質とステロイドを処方されて飲み続けたら半月ほどでノドの炎症はほぼ治まりましたが、そのかわりおなかの調子に異変が起きたのです。実は家のごはんを昨年から玄米食にしたところ、腸内細菌が活性化したらしく毎朝バナナ的快便だったのですが、薬の服用のせいか液状化現象が発生するようになって……。

 

さて、ギョウチュウは人を病気にすることはありません。ただ肛門のあたりがかゆくなるだけです。また、他園ではギョウチュウの検査を行なっていませんが、去年の段階でピヨにはギョウチュウがいなくなったので、ほかの園よりも心配はないと言えます。こうしたことから、今年のプール前のギョウチュウ検査は他の園と同じく行わないことにしました。どうぞご理解のほどよろしくお願いします。

 

今月の熊G 2021.4

 

4月です。新しいクラスへようこそ。新しい仲間もようこそ。そして子育て初心者のパパママようこそ。これから一緒に子育てしていきましょう。

 

うちの息子が生まれた時、親戚から広辞苑みたいな大きな育児書をもらいました。昭和の時代から読み継がれている小児医学と育児についての本でした。本棚でほこりをかぶっていたその「定本 育児の百科」(岩波書店)を十数年ぶりに開いてみました。先週、1才児クラスの子が医者で小児ぜんそくと言われたというのでそれを調べてみたのです。

 

「かぜにしては、あまりせきが長くつづくので、心配してちがう医者にかかると、これは小児ぜんそくですといわれることがある。医者は、子どもの肺にたんがたまっているという。母親はびっくりする。」それはびっくりするでしょう。どうすればいいのか読み進めるとこんなことが書かれています。「おとなにみられるぜんそくと、子どものたんのたまりやすいたちというのとは、ちがうものである。」「おとなになってぜんそく持ちにしないためには、子どもに、自分は健康な人間だという自信をもたせつづけることが必要だ。」自信をもたせる?要約すると著者の趣旨はこうです。まわりのおとなが心配そうに介抱したり何度も注射を打ったりするとその子は、自分は重い病気を持っているらしいと感じ、母親への依存が強まる。するとたんがたまってきたとき、自分で吐ききろうとせず、母親にあまえるのでますますたんがたまる。一方、たんがたまってもそんなものは平気だというふうに育てられた子どもは、小学校へ行くころには忘れたようになおってしまう。戸外に出てよく遊ぶことで大気により鍛錬するからだ。子だくさんの家庭ではぜんそくがでず、ひとりっ子の家庭でぜんそくがでるのは母親が子どもをかばいすぎるからだ、というのです。なんだかスパルタな印象ですが、ピヨピヨ保育園の保育と通じるところがあります。

 

著者の松田道雄は京都大学で小児結核の研究をしたのち、小児科医院を開業したひとで、晩年は多くの著作によって保育の分野でも知られた存在でした。「定本 育児の百科」は育児書のスタンダードとして今でも文庫本で買うことができます。

 

最近、この松田道雄の随筆集が出版されました。「子どものものさし」(平凡社)という小ぶりな本で、子育てに関する短い文章が並んでいます。

 

子どもをいい子に育てたい、親や先生はそう考えて、いろいろ教育します。しかしそれはおとなのものさしをあてがうということです。おとなのものさしでいい子かどうか測るということです。しかし、「子どもは子どもなりにものさしをこころにもって」います。でもそれを使わずに育ったら、ものさしを持っていることすら忘れてしまいます。おとなのものさしでうごく子どもは、わるいことがあったら、なんでも人のせいにします。そうならないために子どものものさしを使う機会をたくさん与えてほしいのです。そんなことが書いてあります。

 

つまり松田道雄というひとは、子どもを信じているひとなのです。親や先生が過保護にしたり、教育的になったりすると、子どもが自分で育つ力が弱くなってしまう。そうではなくて、子どもが持っている大きくなろうとする力を信じて、よけいな手出しはしないでおこうと言っているひとなのです。

 

ピヨが「人生の土台をつくる」ための保育と言っているのも同じことです。強いからだと自分で考える力をもった子にするために、水刺激やリズム遊びを大切にし、子ども自身が決められるよう、おとなが転ばぬ先の杖を出さないようにしています。

 

***

 

昨年9月のこの欄で、微生物の話を書きました。微生物のおかげで人が免疫力を発揮できるという話でした。その話を書いたのは「土と内蔵」という本を読んだことと、もうひとつ、「いただきます2 ここは発酵の楽園」という有機無農薬農法の農家と保育園のかかわりを取材した映画を観たからでした。その結果、58才にして私の世界観は大きく転回しました。この映画が5月5日にオンラインで配信されます。ネットで「まほろばスタジオ」を検索すると予告編と申込方法がでてきます。ぜひ視聴してください。わたしたちをとりまく世界の見え方を変えてくれる映画です。

 

 今月の熊G 2021.3

今年度もあとわずかになりました。この一年間、保護者のみなさまにはコロナ対策にご協力いただきありがとうございました。最初の緊急事態宣言中は自宅で保育をしていただき、ご苦労をおかけしました。お仕事がある中、お子さんを散歩に連れ出している姿を見かけることもありましたし、テレワークのオンライン会議中に子どもの姿が映って困るというお話しも聞きました。

 再開後はテラスでの送迎で、子どもの帰り支度がはかどらずに長時間お待たせすることになり、冬の夜にテラス下のふきさらしの寒風の中で辛抱強くお待ちいただいたこと、とても申し訳なく思います。手指消毒や休日の外出自粛などにも務めていただきました。例年行う行事の中止にもご理解をいただきました。鎌倉のいくつかの保育園で感染者が出て休園になる中、ピヨでは一人の感染者も出ず、保育を続けることができています。これは職員の日々の努力にもよりますが、保護者の皆様のご協力によるところが大です。本当にありがとうございました。

 1月以来の緊急事態宣言はまた延長されましたが、感染対策を図った上で今月の行事を実施することについてもご理解いただきましてありがとうございます。人間がこれまで根絶できたウイルスは天然痘だけです。新型コロナウイルスは弱体化しつつもインフルエンザのように風邪の一種として存続し、人間と共存していきます。今後もコロナを前提として感染対策を行いつつ、必要な保育を行っていきます。科学的、合理的な判断に従って、「正しく恐れる」ことが大切だと思います。

 今回コロナ禍によってさまざまな制限が課されましたが、保育園にとって特に大きな影響を及ぼしたのは、園に関わる大人同士のコミュニケーション不足の問題だったと思います。各種の会議が中止になったりオンラインになったりして対面での話し合いを持つことができませんでした。行政との会議、地域の会合、他の保育園との交流、父母会、保育士会、園長会、研修会などは軒並み中止となり情報が滞りました。そして何より、保育園と保護者との対話が減ってしまったのではないでしょうか。

 外での送迎で会話が少なくなったり、クラス懇談会や個人面談がなかなかできなかったり、行事が減ったりしたことで、園と保護者の対話の機会が十分でなかったと思います。確かにコロナ対策は人と人の距離を隔てることを要求します。しかし対話不足をコロナのせいと言い訳するのではなく、来年度は感染を防止しつつなんとかして大人同士のつながりを回復する年にしたいと思います。

 さて、今年は東日本大震災から10年の節目を迎えます。2011311日、現在の常盤の園舎は工事中で、あと数日で完成という段階でした。そのときのピヨピヨ保育園は由比ガ浜の海岸から300mのところにありました。地震が起きたとき私は材木座にいましたが、揺れがおさまってしばらくして常盤の現場を見に来て建物に被害がないことを確認してから由比ガ浜の園舎に行きました。園には子どもたちも保育士もいなくて張り紙がしてあり、みんな御成小学校に避難したと書いてありました。水やラジオを持って小学校へ行くと、ピヨのために貸してくれた教室で子どもたちが先生たちとお迎えを待っていました。夜になっても鎌倉に帰ってこられない保護者がいて、何人かが学校で一夜を明かしました。どんなに心細かったことでしょうね。

 今の園舎は新しい耐震基準で設計しているので地震で倒壊することはないでしょう。場所的に津波や台風による浸水の心配もなく、崖崩れの危険も少ないです。火事はこわいですが、防災訓練で消火器の訓練もしています。水や食料の備蓄もありますので災害が起きた場合には園内で待機します。もし海岸にいて地震が来たら第一中学か御成中学へ逃げることになっています。

  しかしどんなに備えても、感染病や天災の危険がゼロになることはありません。ですから生き延びるための力を養うことが大切です。生物は進化の過程で餌に近づくため、そして危険から逃れるために移動する能力を獲得し、それを効率よくするために後から脳ができたそうです。生物としての本能が衰えている現代の私たちや子どもたち。もっと自然に帰って生命力を高めましょう。

 

今月の熊G 2021.2

今年は22日が節分でした。124年ぶりということなので、前回は明治時代。そのころの節分はどんな様子だったのでしょう。現在と違って町中に「鬼はそと」の声が響いていたのではないかな。我が家ではいつも豆まきが大好きな父が近所にはばからず外に向かって大きな声で「鬼はそとー!」とやっていたので今年もそうしました。

 ピヨでも節分は大切な年中行事です。昨年は年長がお散歩に出ていて園にいなかった時間に小さな鬼の集団がやってきて、やま組以下が泣きながら一生懸命豆をぶつけて退治しました。帰ってきた年長たちにその様子を話していました。するとこんどは大きな鬼があらわれて年長もびっくりしていましたっけ。

 今年も節分が近づくと絵本を読んでもらったり、鬼役の年長は小さい子たちには内緒で鬼のお面をつくったりしてその日を待ちました。前日にはイワシを焼いてもらって、みんなでイワシの頭をヒイラギの葉といっしょにあちこちにぶら下げました。幼児は節分の歌をうたい、年長は追い出したい「自分の中にいる鬼」がどんな鬼なのかを教え合っています。当日のおやつには恵方巻きを食べます。

 さて肝心の豆まきですが、今年は消費者庁という役所から5才以下の幼児に豆を食べさせないようにとの通達が来ました。のどや気管に詰まってしまう危険が明らかになったからということです。ピヨでは盛大に炒り豆をまいたあとすぐに掃除するのですが、小さい子がひろって食べてしまうことが絶対にないとは言い切れません。命を守るために豆まきはやめるべきか?豆まきをしないでピヨが大事にしている伝統文化は守れるのか?私たち職員は大変悩みました。

 そこでピヨと同じさくら・さくらんぼ保育を実践している保育園の園長たちにこの「豆まきどうする問題」をメールで投げかけてみました。

 するとやはりどの園でも通達をうけて悩んでいるということがわかりました。豆まきをする予定というところと、豆の代わりのものをまく予定というところがありますが、いずれも子どもがのどを詰まらせることのないように工夫していました。

 たとえば豆をまく場合は近所の神社の境内とか竹林に出かけていってまくとか、乳児組が入れないように部屋を閉め切って掃除要員を配置してまくということでした。一方、豆の代わりにちぎった和紙や新聞紙をまるめたもの、あるいは紙粘土で作った大きめの玉を豆の代わりに鬼に投げつける園などがありました。やりかたはそれぞれですが、どの園でも絶対に事故をおこさないように、職員たちが話し合って安全な方法を採用していました。ピヨでも議論の末、新聞紙を丸めて豆の代わりにすることにしました。

 メールのやりとりでそうした経緯を聞いていくなかで、多くの園で豆まきの議論を積み重ねていくうちにもっと根本的なところまで掘り下げられていく様子がうかがえました。

 「正直ものすごく悩みましたが、これは職員に頼るしかないと思いみんなで意見を出し合いました。すると園外活動(散歩)、遊具の一つ一つ、木登り、睡眠チェック、どこからでも進入できる不審者問題、今ではすべてが危険要素を持っていることに気がつきました。・・・・・・保育は危険と隣り合わせであることを常に伝え合い、保育を楽しむことが大事だとなりました。」ある園長先生からのメールにそう書いてありました。危険を意識し、かつ楽しむこと。その二つの意識が車の両輪となって保育が進んでいくと言う意味だと理解しました。豆まきは危険をはらんでいるが節分の行事は子どもにとってワクワクする楽しいもの。そうした2面性は節分行事に限らず、日々の保育の中のさまざまな場面に見られる特質です。保育園の職員は常に意識の両輪をもって保育にあたっています。

 それ自体神経をすり減らす仕事ですが、いまはコロナがそれに拍車をかけています。同様にご家庭でもお仕事と子育てですでに十分大変なのに、発熱で心配し、在宅勤務でイライラし、ストレスがたまる日々ですね。どうでしょう、カレンダーを読み間違えたふりして、窓を開けて「おにはそとー!」と大声で叫んでみては。少しは気が晴れるかも

 

 

 

今月の熊G 2021.1

明けましておめでとうございます。コロナで暮れ、コロナで明けた年末年始でしたがみなさまお正月はいかがお過ごしでしたか。わが家の正月はテレビで箱根駅伝を観戦して過ごすのが習慣ですが、今年の駅伝はこれまで見たどの年のレースよりも興奮しました。だってあの結末、いったい誰が予想できたと思います?

 見なかった方のために説明しますと、2日間で行う往復10区間の駅伝レースの1日目を1位で終えたのが創価大学。その続きの2日目も再スタートしてからずっと1位をキープしたまま最終10区のアンカーにタスキを渡しました。その時点で2位の駒澤大学は創価大に3分以上の大差をつけられていて、アナウンサーも「創価大学の優勝は間違いないでしょう。」と言っていました。しかし創価大のアンカーのスピードが上がりません。解説者が「前半はセーブしているのかも」といっているうちに駒澤のアンカーが快走してぐんぐん差をつめていくではありませんか。あれ?ひょっとして、と思っていたら創価大の背中が見えてきて、ついに残り2キロ地点で追いつき、ラストスパートして逆転優勝をかざったのです。まさに筋書きのないドラマ!当の駒澤の監督でさえ逆転は無理だと思ったというのに。でもなぜこんな結末になったのか。

 私の行きつけの床屋の奥さんが駅伝マニアで、昨日散髪した時に教えてくれたのですが、創価大のアンカーの子は1日目からものすごく緊張していて、走る前の晩は一睡もできなかったというのです。睡眠不足で出走して、途中で軽い脱水症状になったそうです。

 前日からの1位を守らなければいけないというプレッシャー、大学のユニフォームを着たチームの一員としてゴールテープを切る重責に押しつぶされて普段の力を発揮できなかったのでしょう。一方の駒澤のアンカーは、昨年も同じ10区を走ってふがいないタイムだったので、いいタイムを出すことだけを考えていたそうです。3分差だから勝てなくて当然とリラックスして走ったと思います。そうしたら前の走者が見えてきたというわけです。

 こころが身体に影響をおよぼすのです。ピヨの運動会の予行練習で、保育士や友達が取り囲む竹登りでてっぺんまで登れない子がいました。でもひとりなら園庭の練習用の竹を上まで登れるのをみるとこころの問題なのだなあと思います。「最後までやり抜く」「感情をコントロールする」といった能力を「非認知能力」といいますが、この能力は主に乳児期から小学校低学年くらいまでの間にみんなで遊んだり活動したりする中で育ちます。学校のテストで評価されるような能力は「認知能力」ですが、社会的に成功している人は非認知能力が高いことが分かっているそうです。ピヨが行っているのも早期教育ではなくこの非認知能力を伸ばす保育です。

 話は駅伝に戻りますが、私も駅伝をやっていたことがあります。とはいっても箱根駅伝には及びもつかない鎌倉市民駅伝大会です。町内会チームの部に西御門走ろう会のメンバーとして参加していました。他のチームが日々練習して挑んでいるのに対し、うちのチームはその日だけ集まって参加し、目的はその後の懇親会というおきらくチームです。だから成績はいつもビリ争い。

  ある年の大会のことです。私は監督兼選手として参加していました。一人の区間は箱根駅伝の110、たった3キロですが坂が多いコースで、息も絶え絶えになりながらビリかビリ2を走っていました。最後の直線コースにかかったとき、ずっと前の方に先行する選手が見えました。でもとても追いつける距離ではありません。監督だし、ひとつくらい順位を上げたいのは山々でしたが、これじゃちょっと無理、と思ってペースを上げられずにその背中を見ながら走っていた時です。その人が突如たちどまってひざまずいたのです。?と思ってよく見るとどうやら靴紐がほどけて結び直しているようです。アッ!と思いました。思うと同時にそれまで全然前に出なかった脚が突如ペースを上げ始めたのです。その選手に気づかれないようなるべく足音を立てずに必死に走って、ようやく紐を結び直して走り始めた彼の脇をかわし、あとは目前の中継地点まで死にものぐるいで駆け抜けた10年前の熊Gでした。

 

 

◇お知らせ◇

2024.3

323日(土)に卒園式を行います。当日、保育はありません。ご不便おかけします。

330日(土)に職員全員の総括会議を行いますので、お休みのご協力をおねがいします。

新年度は41日(月)に入園式、進級式を行います。

●4月から保育士パート職員の山田直子さんが入ります。よろしくお願いします。